南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7-1(258/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅳ 無我相經

(Anattalakkhaṇa Sutta)

この經は、仏陀が成道した後、人間(=人の住む社会)において、開示した二番目の經である。

開示した時間は、仏陀が成道の後、最初の雨安居の五日目、またすなわち、仏陀が《転法輪経》を開示した、その五日後である。

みなさんに理解して欲しい事:

その時、五比丘は、みな、ソータパナになっていた為、ソータパナ道智を通して、四聖諦を徹底的に了知することができた、特に苦諦法ーー五取蘊に関しては。

五取蘊とは何か?

すなわち、色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊及び識取蘊である。

色取蘊とは、執着の目標となり得る過去、現在と未来、内在と外在、粗いと微細、劣等と優秀、遠いと近いの11種類の色法の事である。

同様の道理で、

執着を引き起す目標となり得る11種類の受を受取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の想を想取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の行を行取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の識を識取蘊と言う。

この11種類の五取蘊は、苦諦法である。

五比丘は、観智と道智で以て、徹底的に、それらを了知することができたのである。

また、彼らは、集諦法を了知していた、すなわち、(+ソータパナであれば)縁起を観照して、(+その結果)因果関係を了知していなければならないのであった。

苦諦法と集諦法は、行法(saṅkhāra-dhamma)と呼ばれる。

彼らは、容易に、行法を無常・苦・無我として観照することができた。

まさにそうであるが故に、彼らは《無我相經》を聞き終って後、阿羅漢果を証悟することができたのである。

彼らが、快速に証悟できた、その近因と遠因は、以下の二項の要素を具備していた(+が故である):

彼らはすでに、その一生において、観禅の修行をし、ソータパナ果を証得したが、これが近因である。

過去仏の教化の時代、彼らはかつて、すでに苦諦法と集諦法を無常・苦・無我として観照して、行捨智の段階に到達していた、これが遠因である。

この二項の要素の支援の下、彼らは快速に阿羅漢果と、四無礙解智とを、同時に証悟することができたのである。

(+上に述べた)これらの事柄は、彼らの証悟の要素と状況である。

我々は、經文を読んでみようと思う:

(この經は)バラナシの付近の鹿野苑で話された。

その時、世尊は、五比丘の以下の様に、話された:

「比丘たちよ。

色は私(=我とも。以下同様)ではない。

比丘たちよ。

色が私であるならば、

色は疾病に遭遇する事がないし、

また人々は、色をコントロールする事ができ、

以下の様に言うであろう:

『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』

しかしながら、比丘たちよ。

色は私でないが故に、色は疾病に遭遇し、

人々は色をコントロールすることができない。

(+色をコントロールできるならば、人は言うであろう)

『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』と。」

色法のこの種の無我の本質は、「不自在」(avasavattanaka)であり、その意味はすなわち、色法は、個人または自我(=我、おのれ、以下同様に)の願いによって、生起することがない;

それらは、因縁が和合して生起するのであり、因縁が壊滅する事によって壊滅するのである。

次に仏陀は、その他の四蘊に関して、以下の様に教導する:

「受は私ではない。

比丘たちよ。

もし、受が私であるならば、

受は、疾病に遭遇する事がない。

また人々は受をコントロールすることができ、

以下の様に言うであろう:

『受よ、この様になれ、受よ、あの様になるな』と。

想は私ではない・・・

行は私ではない・・・

識は私ではない。

比丘たちよ。

もし、識が私であるならば、

識は、疾病に遭遇する事がない。

また人々は識をコントロールすることができ、

以下の様に言うであろう:

『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と。

しかしながら、比丘たちよ。

識は私でないが故に、識は疾病に遭遇し、

人々は識をコントロールすることができない。

(+人々が識をコントロールすることができるならば)

『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と言うであろう。

この様に、五蘊はみな、不自在なのであり、我々のコントロールできるものではない。

これがそれらの無常の本質である。

その後、仏陀は問答の方式でもって、開示したが、これを「記説」(veyyā karaṇa)と言う。

「あなたはどの様に思いますか?

比丘たちよ。

色は常ですか?または無常ですか?」

「無常です、世尊。」

この問答の中において、我々は五比丘がすでに、徹底的に、色法を照見しており、かつ色法は無常である事を了知していることが分かる。

故に、仏陀は彼らに問いて言う

「色は常であるか、または無常であるか?」

彼らは容易に答えることができる、「無常である」と。

その時、彼らは観智を通して、色法の無常の本質を明確に照見していたのである。

もし、いまだ色法の無常の本質を照見していないのであれば、彼らはその様に答えることができない。

故に、もし、あなたがソータパナ果乃至阿羅漢果を証悟したいのであれば、あなたもまた、己自身の身によって、観智でもって、色法の無常の本質を徹底的に、了知しなければならない。

仏陀の教法に基づくと、色法は微粒の形態で生起する。

これらの微粒(+子)を色聚と呼ぶ。

それらは、原子より更に小さい。

あなたは系統的に、四界分別観を修習した時初めて、これらの色聚を見ることができる。

あなたが色聚を照見する時、それらは生起するや否や、即刻壊滅することを発見するであろう。

しかし、この時はまだ、それらを無常として、観照してはならない。

というのも、あなたはいまだ徹底的に、色法の密集を看破できていないが故に。

あなたは各種の色聚を分析し、その中の究極色法を透視しなければならない。

あなたは、一粒一粒の色聚の中には、少なくとも八種類の色法、すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、匂い、味と栄養素が、含まれている事を発見するであろう。

ある種の色聚には、九種類の色法が含まれているが、それはすなわち、前に述べた八種類に、命根色(jīvita)を加えたものである。

 ある種の色聚は、10種類の色法を含んでいるが、それはすなわち、前に述べた9種類に、浄色(pasāda-rūpa)または性根色(bhāva-rūpa)、または心所依処色(hadaya-rūpa 心色)などを加えたものである。

唯一、あなたが色聚を分析できる様になった、その後初めて、その中の究極色法を分析することができ、その後でようやく、それらの刹那生・滅を無常として、観照することができる。

その時、あなたは容易に、それらの無常の本質を照見することができるであろう。

色法は、合計28種類ある。

その中の18種類は、真実色法であり、それらは観智の目標となり得る;

残りの10種類は、非真実色法であり、それらは観智の目標(注7)になり得ない。

しかしながら、あなたが色法を観照する時、真実色と非真実色は、みな、観照される必要がある。

というのも、もし、非真実色を観照しないならば、真実色もまた観照することができないからである。

例を挙げて説明すると、たとえば、空間(ākāsa)を照見しないならば、あなたは色聚を照見することができない。

空間は非真実色であり、真実色ではない。その他の非真実色法の状況もまた同様である事は、合理的に類推する事。

仏陀が五比丘に色法は常であるか、無常であるかの問題を問うた時、彼らは明確に、色法を無常であると照見していたが故に、「無常である、世尊。」と答えたのである。

次に、仏陀は問う:

「無常であるならば、それは苦であるか、それとも楽であるか?」

「苦です。世尊」

(注7)「28種の色法」に関しては、「付録」参照の事。

(7-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>