<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
Ⅳ 無我相經
(Anattalakkhaṇa Sutta)
この經は、仏陀が成道した後、人間(=人の住む社会)において、開示した二番目の經である。
開示した時間は、仏陀が成道の後、最初の雨安居の五日目、またすなわち、仏陀が《転法輪経》を開示した、その五日後である。
みなさんに理解して欲しい事:
その時、五比丘は、みな、ソータパナになっていた為、ソータパナ道智を通して、四聖諦を徹底的に了知することができた、特に苦諦法ーー五取蘊に関しては。
五取蘊とは何か?
すなわち、色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊及び識取蘊である。
色取蘊とは、執着の目標となり得る過去、現在と未来、内在と外在、粗いと微細、劣等と優秀、遠いと近いの11種類の色法の事である。
同様の道理で、
執着を引き起す目標となり得る11種類の受を受取蘊と言い、
執着を引き起す目標となり得る11種類の想を想取蘊と言い、
執着を引き起す目標となり得る11種類の行を行取蘊と言い、
執着を引き起す目標となり得る11種類の識を識取蘊と言う。
この11種類の五取蘊は、苦諦法である。
五比丘は、観智と道智で以て、徹底的に、それらを了知することができたのである。
また、彼らは、集諦法を了知していた、すなわち、(+ソータパナであれば)縁起を観照して、(+その結果)因果関係を了知していなければならないのであった。
苦諦法と集諦法は、行法(saṅkhāra-dhamma)と呼ばれる。
彼らは、容易に、行法を無常・苦・無我として観照することができた。
まさにそうであるが故に、彼らは《無我相經》を聞き終って後、阿羅漢果を証悟することができたのである。
彼らが、快速に証悟できた、その近因と遠因は、以下の二項の要素を具備していた(+が故である):
彼らはすでに、その一生において、観禅の修行をし、ソータパナ果を証得したが、これが近因である。
過去仏の教化の時代、彼らはかつて、すでに苦諦法と集諦法を無常・苦・無我として観照して、行捨智の段階に到達していた、これが遠因である。
この二項の要素の支援の下、彼らは快速に阿羅漢果と、四無礙解智とを、同時に証悟することができたのである。
(+上に述べた)これらの事柄は、彼らの証悟の要素と状況である。
我々は、經文を読んでみようと思う:
(この經は)バラナシの付近の鹿野苑で話された。
その時、世尊は、五比丘の以下の様に、話された:
「比丘たちよ。
色は私(=我とも。以下同様)ではない。
比丘たちよ。
色が私であるならば、
色は疾病に遭遇する事がないし、
また人々は、色をコントロールする事ができ、
以下の様に言うであろう:
『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』
しかしながら、比丘たちよ。
色は私でないが故に、色は疾病に遭遇し、
人々は色をコントロールすることができない。
(+色をコントロールできるならば、人は言うであろう)
『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』と。」
色法のこの種の無我の本質は、「不自在」(avasavattanaka)であり、その意味はすなわち、色法は、個人または自我(=我、おのれ、以下同様に)の願いによって、生起することがない;
それらは、因縁が和合して生起するのであり、因縁が壊滅する事によって壊滅するのである。
次に仏陀は、その他の四蘊に関して、以下の様に教導する:
「受は私ではない。
比丘たちよ。
もし、受が私であるならば、
受は、疾病に遭遇する事がない。
また人々は受をコントロールすることができ、
以下の様に言うであろう:
『受よ、この様になれ、受よ、あの様になるな』と。
想は私ではない・・・
行は私ではない・・・
識は私ではない。
比丘たちよ。
もし、識が私であるならば、
識は、疾病に遭遇する事がない。
また人々は識をコントロールすることができ、
以下の様に言うであろう:
『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と。
しかしながら、比丘たちよ。
識は私でないが故に、識は疾病に遭遇し、
人々は識をコントロールすることができない。
(+人々が識をコントロールすることができるならば)
『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と言うであろう。
この様に、五蘊はみな、不自在なのであり、我々のコントロールできるものではない。
これがそれらの無常の本質である。
その後、仏陀は問答の方式でもって、開示したが、これを「記説」(veyyā karaṇa)と言う。
「あなたはどの様に思いますか?
比丘たちよ。
色は常ですか?または無常ですか?」
「無常です、世尊。」
この問答の中において、我々は五比丘がすでに、徹底的に、色法を照見しており、かつ色法は無常である事を了知していることが分かる。
故に、仏陀は彼らに問いて言う
「色は常であるか、または無常であるか?」
彼らは容易に答えることができる、「無常である」と。
その時、彼らは観智を通して、色法の無常の本質を明確に照見していたのである。
もし、いまだ色法の無常の本質を照見していないのであれば、彼らはその様に答えることができない。
故に、もし、あなたがソータパナ果乃至阿羅漢果を証悟したいのであれば、あなたもまた、己自身の身によって、観智でもって、色法の無常の本質を徹底的に、了知しなければならない。
仏陀の教法に基づくと、色法は微粒の形態で生起する。
これらの微粒(+子)を色聚と呼ぶ。
それらは、原子より更に小さい。
あなたは系統的に、四界分別観を修習した時初めて、これらの色聚を見ることができる。
あなたが色聚を照見する時、それらは生起するや否や、即刻壊滅することを発見するであろう。
しかし、この時はまだ、それらを無常として、観照してはならない。
というのも、あなたはいまだ徹底的に、色法の密集を看破できていないが故に。
あなたは各種の色聚を分析し、その中の究極色法を透視しなければならない。
あなたは、一粒一粒の色聚の中には、少なくとも八種類の色法、すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、匂い、味と栄養素が、含まれている事を発見するであろう。
ある種の色聚には、九種類の色法が含まれているが、それはすなわち、前に述べた八種類に、命根色(jīvita)を加えたものである。
ある種の色聚は、10種類の色法を含んでいるが、それはすなわち、前に述べた9種類に、浄色(pasāda-rūpa)または性根色(bhāva-rūpa)、または心所依処色(hadaya-rūpa 心色)などを加えたものである。
唯一、あなたが色聚を分析できる様になった、その後初めて、その中の究極色法を分析することができ、その後でようやく、それらの刹那生・滅を無常として、観照することができる。
その時、あなたは容易に、それらの無常の本質を照見することができるであろう。
色法は、合計28種類ある。
その中の18種類は、真実色法であり、それらは観智の目標となり得る;
残りの10種類は、非真実色法であり、それらは観智の目標(注7)になり得ない。
しかしながら、あなたが色法を観照する時、真実色と非真実色は、みな、観照される必要がある。
というのも、もし、非真実色を観照しないならば、真実色もまた観照することができないからである。
例を挙げて説明すると、たとえば、空間(ākāsa)を照見しないならば、あなたは色聚を照見することができない。
空間は非真実色であり、真実色ではない。その他の非真実色法の状況もまた同様である事は、合理的に類推する事。
仏陀が五比丘に色法は常であるか、無常であるかの問題を問うた時、彼らは明確に、色法を無常であると照見していたが故に、「無常である、世尊。」と答えたのである。
次に、仏陀は問う:
「無常であるならば、それは苦であるか、それとも楽であるか?」
「苦です。世尊」
(注7)「28種の色法」に関しては、「付録」参照の事。
(7-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>