<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
ある時、世尊はガンジス河の阿約迦(Ayojjhā)に留まった。
世尊が初めて阿約迦に来た時、そこに住む居士が、世尊とサンガに僧院を一座供養した。
世尊がそこに住んでいる時、ある日の夕方、彼は香舎から出て、ガンジス河の川岸に座った。
その時彼は、大きな一塊の泡が、河の流れに沿って、流れて来たのを見て、心の中で思った:
「私は五蘊に関する開示を述べようと思う。」
そして、彼の周りに座っていた比丘たちに言った:
「比丘たちよ。
もし、ガンジス河に、大きな泡の塊が流れてきたとして、視力のよい人がそれを視察し、それに関して深く思慮し、それを子細に研究するならば、その泡の塊は、この人にとっては、空の、虚の、実体のないものと言える、というのも、泡の塊のどこに、実体が存在しているといえるのだろうか?
同様に、比丘たちよ。
どの種類の色であろうとも:過去の、現在の、未来の、内在の、外在の、粗いのまたは微細な、劣等なまたは殊勝な、遠いものまたは近いもの、比丘はそれを視察して、それに対して深く思慮して、それを子細に研究すれば、色は比丘にとって、空の、虚の、実体のないものになる。というのも、色の中には実体といえるものがどこにもないのであるが故に。
仏陀がこの様に比喩を述べるのはどの様な意図があるのであろうか?
我々は以下の幾つかの要点を考察しなければならない:
1、まず、彼は泡の空虚、実質がない、という本質でもって、色法(rūpa物質)の空洞であること、実体のない本質を比喩しようとした。
もし、あなたが四界分別観の修習に成功しているならば、我々が執着する所のこの身体は、実際には、実体と実質がないことが、己自身自ら見ることができる。
身体は、ただ極微細な小さい粒子によって集団を構成しているにすぎない;
この種の微粒子を色聚(rūpakalāpa)と呼ぶ。
そして、色聚はまた、刹那生・滅する所の究極色法によって構成されている。
ちょうど我々が泡を掴もうとした時、泡は即刻滅しさる様に、同様に、我々の身体の中の色聚もまた、生起するや否や、即刻解体し、消失する。
新しく生起した色聚は、古いものより取って代わり、その後に同じく、即刻、消えてしまう。
ちょうど、我々が己自身の願望に沿って、泡を形作ることができない様に、同様に、我々の身体を構成する所の色法もまた、我々の意志によってコントロールすることはできないものであり、恒常なる実体または恒常なる自我(=我、私)というものは存在しない。
実際の所、色は無常・苦・無我なのである。
2、仏陀は泡が流れに沿って流れ去ったのを見た時、彼は、泡というものは、いつでも破壊されるもので、またいつ破壊されるかは、予想がつかないものであると知った。
同様に、深く思慮した後、我々は、身体はある日、最終的に瓦解するものであり、粉砕されし、また、我々はそれがいつ起こるかをコントロールすることができないものである(+ことが分かる)。
まさに、河の流れに沿って流れゆく泡の様に、我々は己自身の業に従って、生死輪廻の中で漂っているのであり、いつ生命が終わるのかを知らないでいる。
この事に対して、我々は主人となり得ないのに、我々はどうして、色を常であるとか、我でるとか、認定することができるのであろうか?
色取蘊は無因で、自然に生じる、ということはない;
それらが生起する因と縁は以下の通りである;
1、眼浄色、耳浄色、命根色などの業生色は、五種類の過去因(無明、愛、取、行及び業)に依存して生起する。
2、心生色は、受・想・行・識という、この四種類の名蘊に依存して生起する;
そして、四種類の名蘊はまた、心所依処に依存して生起する。
3、時節生色は、火界(tejo)によって生じるが、火界は色蘊の中の一項である。
4、食生色は、食素によって生じるが、食素もまた色蘊の中の一項である。
仏陀は色取蘊に関して、この様に説明した。
仏陀は引き続き以下の様に解説する。
「比丘たちよ。
もし、雨期の最後の一か月に、大粒の雨滴が直線的に落ちてくるとして、その時、水面では水泡が生起し、また破裂する。
視力のよい人がそれを視察し、それに関して深く思慮し、それを子細に研究するならば、その水泡は、この人にとっては、空の、虚の、実体のないものと言える、というのも、水泡のどこに、実体が存在しているといえるのだろうか?
同様に、比丘たちよ。
どの種類の受であろうとも:過去の、現在の、未来の、内在の、外在の、粗いのまたは微細な、劣等なまたは殊勝な、遠いものまたは近いもの、比丘はそれを視察して、それに対して深く思慮して、それを子細に研究すれば、受は比丘にとって、空の、虚の、実体のないものになる。というのも、受の中には実体といえるものがどこにもないのであるが故に。」
仏陀はこの比喩でもって何を教え様としているのか?
受(vedanā)の特徴は、目標(所縁)の受領と体験である。
受は、楽受、苦受と捨受の三種類の分類することができる。
ちょうど水泡が脆弱で、掌握できない、生じるが否や即刻滅するのと同じ様に、受もまた瞬間できに滅し去るため、その恒常性と安定性を認められることはない。
水泡が水面の上で生じても、久からずして、即刻滅する様に、受もまた同じ道理でもって(+滅し去る、というのも、それは)一弾指の間に、一万億個の受が生・滅し去るが故に。
ちょうど、水泡が因と縁に依存して生起するのと同じ様に、受もまた、過去と現在の因と縁によって生起する。
受が依存する所のの過去の因とは何であるか?
それは無明、愛、取、行及び業である。
受の現在因は何であるか?
それは依処、目標と接触である。
受は、単独では生起することはできず、必ず依処に依存し、目標に接触して相応の名法と同時に生起する必要がある。
その他の名蘊ーー想蘊、行蘊、識蘊ーーもまた、同様の道理で以て、みな単独では生起することができず、必ず過去と現在の因と縁に依存して初めて生起することができる。
これが、仏陀の受取蘊に関する解説である。
仏陀はまた続いて開示する:
「比丘たちよ。
もし、熱季の最後の一か月の正午の時分に、チカチカと揺れ動く蜃気楼が発生したとする。視力のよい人がそれを視察し、それに関して深く思慮し、それを子細に研究するならば、その蜃気楼は、この人にとっては、空の、虚の、実体のないものと言える、というのも、蜃気楼のどこに、実体が存在しているといえるのだろうか?
同様に、比丘たちよ。
どの種類の想であろうとも:過去の、現在の、未来の、内在の、外在の、粗いのまたは微細な、劣等なまたは殊勝な、遠いものまたは近いもの、比丘はそれを視察して、それに対して深く思慮して、それを子細に研究すれば、想は比丘にとって、空の、虚の、実体のないものになる。というのも、想の中には実体といえるものがどこにもないのであるが故に。
仏陀がこの様に比喩を述べるのはどの様な意図があるのであろうか?
想(saññā)の特徴は、標識(=対象にラベリングする事)及び目標(所縁)の認識である。それは次回、同じ目標に出会った時、それを認識できる様にする為である。
想は、蜃気楼と同じである、というのも、それは到達することのできないもの、掌握することができないものであるが故に。
それは一種の心所であり、真正なる実体を持たず、因と縁に依存して、変化するものである。(+それは)一人の人間にとってはこの様に状況であり、別の人間にとってはまた別の状況であったりする。
一切の有為法は、無常・苦・無我及び不浄である;
しかし、凡夫は無明の影響を受けて、見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触るもの、及び知る目標(所縁)を常、楽、我、浄としてラベリングしてしまう。
これを「顛倒想」(saññāvipallāsa、または想顛倒)と呼ぶ。
ちょうど蜃気楼が皆を騙す様に、同様に、想は、人々をして、不浄、苦、無常の物事を、美しいもの、楽しいもの、恒常であると思わしめてしまうのである。
これが仏陀の、想取蘊に関する解説である。
仏陀は引き続き、開示する:
「比丘たちよ。
もし仮に、ある人が、心材を必要として、心材を探し求め、四方に心材を探し求めるとして、その人が鋭利な斧を以て森林に入ったとする。
彼は大きな芭蕉樹を見つけた、それは真っ直ぐで、新緑で、いまだ果蕾は出ていない。
彼は樹幹の根本から、その芭蕉樹を斬り倒し、上部の葉を切り落し、その後に、一層また一層と、樹幹を剥いた。
彼が一回また一回と、樹幹を剥くとき、彼は、柔かい木材さえも見つけることができないし、ましてや心材も見つけることができない。
一人の、視力のよい人がそれを視察し、それに関して深く思慮し、それを子細に研究するならば、その芭蕉樹は、この人にとっては、空の、虚の、実体のないものと言える、というのも、芭蕉樹のどこに、実体が存在しているといえるのだろうか?
同様に、比丘たちよ。
どの種類の行であろうとも:過去の、現在の、未来の、内在の、外在の、粗いのまたは微細な、劣等なまたは殊勝な、遠いものまたは近いもの、比丘はそれを視察して、それに対して深く思慮して、それを子細に研究すれば、行は比丘にとって、空の、虚の、実体のないものになる。というのも、行の中には実体といえるものがどこにもないのであるが故に。」
(7-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>