<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
ここにおいて、仏陀は20種類の薩迦耶見(sakkāyadiṭṭhi、身見)すなわち、ある個体(=個人)が存在していると考える邪見を解説した。
私は、この20種類の薩迦耶見について解説したいと思う。
色蘊に関しては、四種類の薩迦耶見がある:
1、彼らは、色を、我であると認定する;
色と我は同じである;
我はすなわち色であり、色はすなわち我である。
註釈では、比喩でもって、この事を以下の様に解説する;
蝋燭の光と蝋燭の火は同じものである;
光とは火であり、火とは光である。
同様に、ある種の、我があると信じている人々は、我は色であり、色は我であると考える;
色と我は同じであると思うのである。
2、我は色を有する;
ここにおいて名(精神)は我であり、我は色とは異なる(+と思う)。
彼は、受蘊、想蘊、行蘊及び識蘊は我である、
この四種類の名蘊が色法を有する、と思うのである。
註釈では以下の様に比喩で以て説明する:
樹木と樹木の影は異なる;樹木は樹木、樹木の影は影;
樹木は影を擁している。同様に、我(名法)が樹木であり;
色法は樹木の影の様である。
こうしたことから、我は我、色はまた別の事柄であり、我が色を擁するのである。
3、色が我の中に存在している;
彼らは、名法が我であり、色法は名法の中にあると考える。
註釈では、以下の様な比喩で説明する:
花には香があり、香は花の中に存在している。
同様に、我(名法)は花の様にであり、色法は香の様である;
色法が我の中において存在している。
4、我は色の中にある;
彼らは名法を我であると考えて、この我は色法の中において存在するとする。
註釈では以下の様な比喩で説明する:
箱の中にルビーがあるとして、ルビーは箱の中に存在する。
同様に、色法は箱の様であり、我(名法)はルビーの様である:
我は色法の中において存在する。
以上が四種類の比喩である:
(一)蝋燭の光と蝋燭の火、
(二)樹木と樹木の影、
(三)花と花の香、
(四)箱と宝石。
これは、《阿毘達摩蔵》の註釈である《殊勝義註》(Aṭṭhasālinī)の解説である。
これらは色蘊に関する、四種類の薩迦耶見である。
受蘊、想蘊、行蘊と識蘊もまた、それぞれ四種類の薩迦耶見があるが、その状況に関しては、類推する事。
この様に、合計20種類の薩迦耶見がある。
当該の經の中と、第二部の《皮帯束縛經》の中において、仏陀は、如何にして、20種類の薩迦耶見を断じ除くのかを解説している、というのも、この12種類の薩迦耶見は一切の邪見の中においての基礎であるが故に。
薩迦耶見に依存して初めて、種々の邪見、たとえば、無作用見(akiriyadiṭṭhi)、無因見(ahetukadiṭṭhi)、空無見(natthikadiṭṭhi)が生起する。
1、無作用見:善法と不善法が作用を生じる事を否定する。
2、無因見:果報の因を否定する。
3、空無見:因が果を生じることを否定する。
この三種類のjy軒は業因と果報を否定するものである。
当該の經の中において、仏陀は犬でもって以下の様に比喩を述べている:
「ちょうど皮のベルトでつながれた犬が、硬い木の切り株、または柱につながれているとする。
彼は、木の根か柱の周りをぐるぐると回りつづけるしかないのである。」
皮のベルト(=首輪、以下同様)で束縛されているその犬は、人によって縄でもって、硬い木の切り株か柱につながれていて、故に逃げることができない。
同様に、もし、凡夫に、強力な無明、薩迦耶見と愛欲があれば、生死輪廻から逃れることができない。
というのも、この三種類の煩悩に、彼は束縛されているが故に。
無明と薩迦耶見が彼の慧眼を覆い隠し、彼をして、如実に、究極法を見る事ができない。
薩迦耶見は、ちょうど彼の首に巻きついた皮のベルト(=首輪、以下同様)の様である;
愛欲は縄の様であって、彼をして強固に切り株か、柱に縛り付けてている;
五取蘊は、その強固な切り株か、柱の様である。
無明と愛欲は、彼に善行か悪行を実践するよう促す;
それらの行は業と呼ぶ。
いまだ、無明と愛欲がありさえすれば、死亡の後、熟した業力は、次の一世の結生識を生じせしめる。
結生識があれば、再び、老、病、死があり、愁、悲、苦、憂、悩もまた生じてくるのであり、こうしたことから、彼は生死輪廻から逃れることができないのである。
例を挙げて説明する:
たとえば、ある人が、仏像に蝋燭の光を供養して、来世は比丘になりたいと発願したとする。
仏陀の教導した《阿毘達摩蔵》によると、実際には、真実なる比丘というのは存在せず、ただ名色法(精神と物質)が存在するだけである。
彼が、比丘の命に執着するのは取である。
無明、愛、取に依存した事によって、彼は蝋燭の光を仏像に供養したが、これは一種の善業であり、行と業力が含まれる。
この様に、五種類の因がある、すなわち、無明、愛、取、行及び業である。
もし、彼が縁起を修行することができたならば、仏像に蝋燭の火を供養する時に、34個の名法がある事を照見することができる。
これらの名法は、生起するや否や即刻壊滅するため、恒常なる行法というのは存在しない。
しかし、それらはある種の潜在的なエネルギーを残す。
そのエネルギーが熟した時、彼が以前、発願した通りに、比丘の五蘊の生命が生じるが、この種のエネルギーを業力と呼ぶ。
こうしたことから、五種類の因が存在しさえすれば、生死輪は継続し続けるために、彼は痛苦から逃れることができないのである。
仏陀は続けて開示して言う:
「しかしながら、比丘たちよ。
法を善く聞く聖弟子は聖者に会った時、聖者の法において、善くて巧みに伏する。彼は色は我であるとか、または我に色が有るとか、または色が我の中にあるとか、または我が色の中にあるなどと、認めることがない。
彼は、受、想、行は我であると認めないし、識が我であるとか、または我に識があるとかあ、または識が我の中にあるとか、または我が識の中にあるとか(+の考え)を認めない。
彼は、二度と再び、色から色へ、受から受へ、想から想へ、行から行へ、識から識へ、常に走り続けて、流転することがない。
彼はもはや、その中で走り続け、流転することはなく、故に彼は色から脱離し、受から脱離し、想から脱離し、行から脱離し、識から脱離する。
私は言う、彼は生、老、死から解脱し、愁、悲、苦、憂、悩から解脱し、痛苦から解脱する。」
どの様にすれば、痛苦から解脱することができるのか?
我々は、第二部《皮帯束縛經》の後段を研究しようと思う。
仏陀は、その經の中において解説して言う:
異なる業は、衆生に種々の違いを齎す、と。
(10-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
薩迦耶見薩迦耶見
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