南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」9-2(286/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

ここにおいて、仏陀は20種類の薩迦耶見(sakkāyadiṭṭhi、身見)すなわち、ある個体(=個人)が存在していると考える邪見を解説した。

私は、この20種類の薩迦耶見について解説したいと思う。

色蘊に関しては、四種類の薩迦耶見がある:

1、彼らは、色を、我であると認定する;

色と我は同じである;

我はすなわち色であり、色はすなわち我である。

註釈では、比喩でもって、この事を以下の様に解説する;

蝋燭の光と蝋燭の火は同じものである;

光とは火であり、火とは光である。

同様に、ある種の、我があると信じている人々は、我は色であり、色は我であると考える;

色と我は同じであると思うのである。

2、我は色を有する;

ここにおいて名(精神)は我であり、我は色とは異なる(+と思う)。

彼は、受蘊、想蘊、行蘊及び識蘊は我である、

この四種類の名蘊が色法を有する、と思うのである。

註釈では以下の様に比喩で以て説明する:

樹木と樹木の影は異なる;樹木は樹木、樹木の影は影;

樹木は影を擁している。同様に、我(名法)が樹木であり;

色法は樹木の影の様である。

こうしたことから、我は我、色はまた別の事柄であり、我が色を擁するのである。

3、色が我の中に存在している;

彼らは、名法が我であり、色法は名法の中にあると考える。

註釈では、以下の様な比喩で説明する:

花には香があり、香は花の中に存在している。

同様に、我(名法)は花の様にであり、色法は香の様である;

色法が我の中において存在している。

4、我は色の中にある;

彼らは名法を我であると考えて、この我は色法の中において存在するとする。

註釈では以下の様な比喩で説明する:

箱の中にルビーがあるとして、ルビーは箱の中に存在する。

同様に、色法は箱の様であり、我(名法)はルビーの様である:

我は色法の中において存在する。

 以上が四種類の比喩である:

(一)蝋燭の光と蝋燭の火、

(二)樹木と樹木の影、

(三)花と花の香、

(四)箱と宝石。

これは、《阿毘達摩蔵》の註釈である《殊勝義註》(Aṭṭhasālinī)の解説である。

これらは色蘊に関する、四種類の薩迦耶見である。

受蘊、想蘊、行蘊と識蘊もまた、それぞれ四種類の薩迦耶見があるが、その状況に関しては、類推する事。

この様に、合計20種類の薩迦耶見がある。

当該の經の中と、第二部の《皮帯束縛經》の中において、仏陀は、如何にして、20種類の薩迦耶見を断じ除くのかを解説している、というのも、この12種類の薩迦耶見は一切の邪見の中においての基礎であるが故に。

薩迦耶見に依存して初めて、種々の邪見、たとえば、無作用見(akiriyadiṭṭhi)、無因見(ahetukadiṭṭhi)、空無見(natthikadiṭṭhi)が生起する。

1、無作用見:善法と不善法が作用を生じる事を否定する。

2、無因見:果報の因を否定する。

3、空無見:因が果を生じることを否定する。

この三種類のjy軒は業因と果報を否定するものである。

当該の經の中において、仏陀は犬でもって以下の様に比喩を述べている:

「ちょうど皮のベルトでつながれた犬が、硬い木の切り株、または柱につながれているとする。

彼は、木の根か柱の周りをぐるぐると回りつづけるしかないのである。」

皮のベルト(=首輪、以下同様)で束縛されているその犬は、人によって縄でもって、硬い木の切り株か柱につながれていて、故に逃げることができない。

同様に、もし、凡夫に、強力な無明、薩迦耶見と愛欲があれば、生死輪廻から逃れることができない。

というのも、この三種類の煩悩に、彼は束縛されているが故に。

無明と薩迦耶見が彼の慧眼を覆い隠し、彼をして、如実に、究極法を見る事ができない。

薩迦耶見は、ちょうど彼の首に巻きついた皮のベルト(=首輪、以下同様)の様である;

愛欲は縄の様であって、彼をして強固に切り株か、柱に縛り付けてている;

五取蘊は、その強固な切り株か、柱の様である。

無明と愛欲は、彼に善行か悪行を実践するよう促す;

それらの行は業と呼ぶ。

いまだ、無明と愛欲がありさえすれば、死亡の後、熟した業力は、次の一世の結生識を生じせしめる。

結生識があれば、再び、老、病、死があり、愁、悲、苦、憂、悩もまた生じてくるのであり、こうしたことから、彼は生死輪廻から逃れることができないのである。

例を挙げて説明する:

たとえば、ある人が、仏像に蝋燭の光を供養して、来世は比丘になりたいと発願したとする。

 仏陀の教導した《阿毘達摩蔵》によると、実際には、真実なる比丘というのは存在せず、ただ名色法(精神と物質)が存在するだけである。

彼が、比丘の命に執着するのは取である。

無明、愛、取に依存した事によって、彼は蝋燭の光を仏像に供養したが、これは一種の善業であり、行と業力が含まれる。

この様に、五種類の因がある、すなわち、無明、愛、取、行及び業である。

もし、彼が縁起を修行することができたならば、仏像に蝋燭の火を供養する時に、34個の名法がある事を照見することができる。

これらの名法は、生起するや否や即刻壊滅するため、恒常なる行法というのは存在しない。

しかし、それらはある種の潜在的なエネルギーを残す。

そのエネルギーが熟した時、彼が以前、発願した通りに、比丘の五蘊の生命が生じるが、この種のエネルギーを業力と呼ぶ。

こうしたことから、五種類の因が存在しさえすれば、生死輪は継続し続けるために、彼は痛苦から逃れることができないのである。

仏陀は続けて開示して言う:

「しかしながら、比丘たちよ。

法を善く聞く聖弟子は聖者に会った時、聖者の法において、善くて巧みに伏する。彼は色は我であるとか、または我に色が有るとか、または色が我の中にあるとか、または我が色の中にあるなどと、認めることがない。

彼は、受、想、行は我であると認めないし、識が我であるとか、または我に識があるとかあ、または識が我の中にあるとか、または我が識の中にあるとか(+の考え)を認めない。

彼は、二度と再び、色から色へ、受から受へ、想から想へ、行から行へ、識から識へ、常に走り続けて、流転することがない。

彼はもはや、その中で走り続け、流転することはなく、故に彼は色から脱離し、受から脱離し、想から脱離し、行から脱離し、識から脱離する。

私は言う、彼は生、老、死から解脱し、愁、悲、苦、憂、悩から解脱し、痛苦から解脱する。」

どの様にすれば、痛苦から解脱することができるのか?

我々は、第二部《皮帯束縛經》の後段を研究しようと思う。

仏陀は、その經の中において解説して言う:

異なる業は、衆生に種々の違いを齎す、と。

(10-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

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