Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(85ー3/4/5)(私家版)

2.五取蘊                                5蘊に執取する事は、一切の苦痛の来源である。仏陀は言う:「生・老・病・死・怨憎会・愛別離・求不得苦……総じて、5取蘊は苦諦である。」              5取蘊とは何か?色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊、この5法は、執取の目標となる。一切は貪愛されて、「私の」ものとして執取されるか、又、邪見によって、「私の自我」と執取される色は、全て色取蘊と呼ばれる。。。              受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊も又同様である。。。                5蘊は因縁法である。例えば、識蘊は、如何にして生起するか?色塵が眼浄色を衝撃して初めて、眼識が生起する。          仏陀は《六処経》において言う:「識蘊は因縁法であり、『我(私)』ではない。眼識が『我』であるならば、今、色塵が消失して、色塵が眼根を衝撃しないならば、それに従って、眼識も消滅する。もし眼識が『我』であるならば、私も又消滅しなければならない。しかし、私は消滅する事はないのであるから、眼識は『我』ではない。眼識は因縁法である。」           その他の色、受、想、行蘊も又同様である。何故、5蘊は、我、我のものであると、執取され続けるのであるか?       というのも、潜在する煩悩ーー無明と貪愛が、心流れの中にあって、徹底的に取り除かれる事がない為である。。。        勿論、我々は、理論上は、5蘊を我、我のものとして執取してはならない事は知っていても、しかし、5塵が5根を衝撃する時、どうしても、それを我、我のものと執取してしまう。。             これを避けるためには、今ここにおいて、観を起こさねばならない。例えば、受が生起した時、すぐに受の無常、無我等を観ずるのである。修行は、その時、今ここにおいて、観ずる事が実践されなければならない。そうして初めて、無明と貪愛が断じ除かれる。もし、リトリートを待ってから修行するのでは、(余り)効果はないのである。。。                  ここにおいて、一切の四取(欲取、邪見取、戒禁取、我論取)によって執取される所の5蘊は、皆、取蘊と呼ばれる。それは、全ての色蘊と世間に属する所の四名蘊である。出世間の四名蘊は取蘊には属さない。というのも、それは完全に執取の範囲を越えているが故に。言い換えれぱ、それらは、貪又は邪見の目標とはならないのである。5蘊と5取蘊の違いは何であるか?阿羅漢には5蘊はあるが、5取蘊はない。凡夫には、5蘊もあれぱ、5取蘊もある。これが二者の違いである。