故に、観の修習をする前、なお、四種類の清浄が存在している。
何故であるか?
観の修習とは、名色及びその因、無常・苦・無我の本質への観照を言う。
いまだ名色とその因を見ないのであれば、それらの無常・苦・無我をどの様に観照せんというのであろうか?
如何にして観の修習を実践するのか?
唯一、徹底的に、名色及びその因を識別した後に初めて、我々は、観の修習を始めることができる。
名色法及びその因は「諸行法」(saṅkhāra)と言う:
それらは、一たび生起するや否や、滅し去る、故に無常である;
それらは不断に生・滅の圧迫にさらされているが故に、苦である;
それらには自我(atta)がない、安定と不壊滅の実質がないが故に、無我である。
この様に無常・苦・無我を観照して、初めて真正の観の修習と言える。
故に観の修習を始める前、我々は、禅修行者に対して、名法、色法と縁起を識別する様に指導する。
義注の中においては、以下の様に解説する:
”aniccanti pañcakkhandha”<注129>と”aniccanti khandha pañcakaṃ”<注130>であると。
その意味は:
「無常とは五蘊の事である」
五蘊、言い換えれば、すなわち、名色とその因である。
故に、真正の観の修習とは、あなたに対して、五蘊及びそれらの因と果を知見する様に、要求するものなのである。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>