これらはみな、究極名色法である。もし、禅修行者が、これらの究極名色法を見ることができたならば、彼は観の修習をして、これらの名色法の無常・苦・無我の本質を観照することができる。しかし、もし彼が、究極名色法を見ることができないのであれば、彼は、どの様にして、観の修習をするのであろうか?
というのも、名色法及びその因は、観智が必要とする対象であるが故に。これこそが、真正なる観禅なのである。
唯一、真正なる観禅のみが、道智と果智を引き寄せることができる。
仏陀は、《大念処經》<注297>において、以下の様に指導して言う、涅槃を証悟する為の道は、ただ一本の道(ekāyana)しかない。他に道は無い、と。
この道とは何であるか?
仏陀は言う、先に定力を育成しなければならない。というのも、定力を擁する心は、究極名色法及びその因を知見することができるが故に、と。
次に、定力を擁する心は、究極名色法及びその因の無常・苦・無我の本質を知見することができる。<注298>
しかし、我々は、涅槃を証悟するのに、どの道が一番速いかを言うことはできない。
この事は、個人のハラミツ(pāramī)によるが故に。