南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-40(40/82)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

すべての大衆(=有情)を、同時に対象として取る。

同時に、彼ら(彼女ら)の意門に入り、直接彼らの過去世において、彼らの「五蘊法」「12処」「18界」を確認し、その後に、現在に戻り、その後に、彼らの未来世を確認する。

過去、現在、未来を調べるのは、「縁摂受智」である。これは縁起法に属する内容である。

己自身と衆生とが、なぜ男性であるのか、なぜ女性であるのか;

なぜ出家したのか、なぜ出家しないのか;

なぜリトリートに来たのか、なぜリトリートに参加したくないのか;

なぜある種の人々は福徳の報が大きく、なぜある種の人々は、貧困なのか;

なぜある種の人々は、一人静かに暮らすのが好きで、なぜある種の人々は、にぎやかなのが好きなのか;

これらは皆、過去世と関係がある。

この一世の五取蘊は、すなわち「苦聖諦」と「苦集聖諦」である。

この一世で、出家するのを好む、または出家したがらないか、というのも、第一番目の過去世の「臨終速行行業」と「無明愛取」が原因である。というのも、「煩悩輪転」と「業輪転」によって、この一世で、人間になったり、出家したりするのからである。

この一世の「煩悩輪転」と「業輪転」は、いまだ果報が残っているならば、継続して輪廻しなければならず、それは未来世にも続くのである。

我々は、過去世では、また別の人間であった。異なる親戚、友達を持っていた。この一世での、親戚友人はまた別の人たちだ。

未来には、また引き続き別の人になって、今とは異なる親戚、友人、兄弟姉妹と付き合う。

五取蘊がある限り、我々はずっと己自身に執着し、私は、私は、と止まる事をしらない。

実際は、これらは意義のない、退屈な名色法の生・滅、無常・苦・無我に過ぎない。

以上は、己自身についての説明である。

(41につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>