本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-41
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
外にあるもの、すなわち、他人を観察しても、結局は、不断に輪廻している名色法に過ぎないのだ(+という事が分かる)。
それなのに、却って絶え間なく執着して、禅の修行に行くなどと、考えた事もない。
この様な修行をすれば、悚懼の感じが生じて、もはや輪廻したいとは思わなくなる。
例えば、我々は、今、ある種の成功を得た様に思う。家はあるし、車も持っているし、多くの財産も持っている。
しかし、未来世を調べてみると、これらの品々は、我々と一緒に、未来世に来ることがない事が分かる。
少し定力のある者は、自分の死体のそばで、家人が笑いながら、おしゃべりしているのが見える。
あなたは己自身が、重要人物であると、思っているかも知れない。あなたが生きている時なら、あなたは、無給の雇われ人であり、あなたがいなくなっても、誰も、痛くも痒くもない。
彼らは、あなたが死んだからと言って、一緒に死んではくれない。古代の国王は権勢があった為に、人を生贄にして埋葬したが、現代では、誰もあなたに付き添って、一緒に死んでくれる人はいない。
こうした事から、あなたは他人から必要とされているのだ、と妄想してはならない。
あなたに権力があり、非常なお金持ちでない限り(+人はあなたを必要としない)。
もし、あなたにお金がないならば、ゴミ箱の方が役に立つくらいである。
故に、己自身の心内は、明確で、明晰でなければならない。
輪廻の中において、家族はあなたを必要としていないし、彼らが必要としているのは、無給の雇われ人だけである。
故に、我々は縁起法を調べなければならない。
この様にして初めて、我々は我々の過去、現在、未来の輪廻を知って、その輪廻に何等の意義もない事を知るのである。
それらを知った人だけが、過去の仏陀方の様に、入涅槃する事ができる。
そして、上の事を知ったならば初めて、なぜ、阿僧祇の過去の仏陀の方々、パーチェカ・ブッダたち、阿羅漢たちが涅槃するのか、に感じ入る事ができる。
そうでなければ、涅槃とは何か、を知る事ができないし、なぜ涅槃に入る必要があるのか、も知る事がない。
ある種の人々は師父に聞く:
私が涅槃に入る時、妻を一緒に連れて行ってもよいかどうか?と。
私は、なぜその様な必要があるのか?と聞く。
彼は言う:
もし、私一人で涅槃したならば、自分が利己的な様に、感じるのです。
(+彼は)本当は、妻を見捨てられないのを、婉曲に言っているに過ぎない。
自分が妻を、見捨てられないのを、人に笑われたくない為の、婉曲な表現である。
いわゆる涅槃とは、すべての究極名色法、概念の苦、究極の苦が、すべて存在しなくなる事を言うのである。
(42につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>