翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(88ー3/4)(私家版)
2.無明は集諦を知らない。無明は、渇愛が苦の因であることを知らない。知らないだけでなく、欲楽と渇愛は、楽しみの元であると錯覚している。。。。 3.無明は、滅諦が即ち涅槃であることを知らないだけでなく、苦の滅又は滅諦を、もう一つの、別の世界に往生するのだと誤解している。例えば、キリスト教は、天堂(天国)に往生すれば、永恒であり、苦痛からの解脱である、と思っている。浄土宗は、浄土に往生すれば永遠の楽しさがある、と考えている。ヒンズー教は、梵天に生まれる事は、苦痛の終焉であると思っている。。。 無明の為に、実際は、苦痛の終焉は、もはや再び生まれない事である、のを知らない。天国に生まれるのは、一個の生命の出生であり、浄土に往生するのも、梵天に往生するのも、同じく生命の出生である事を知らない。。。 生まれれば、必ず死がある。これは不変の真理である。無明は、不生不滅を知らないだけでなく、名色の終焉が涅槃である事を知らないだけでなく、涅槃又は苦の滅を、もう一つの別の世界に生まれるのだと思っている。。。 この様であるから、業を造す(なす)のである。ある種の婆羅門は、動物を多いに殺して、天を祭り、神を祭るが、これは非福行である。彼らは無明である為に、この様にすれば、天国・天界に生まれる事ができると考えているが、却って非福行の身口意の業をなしている。。。。 ある種の人々は、梵天に往生したいと思い禅定を修するが、不動行を修する無色禅ならば、死後、梵天に往生する事ができると考えている。。。 以上が、無明が如何にして行の縁になるか、と言う例である。