Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-24

「彼は、己自身が五蓋を捨てたことを知った時、愉快(+な気持ち)が生じた。愉快な気持ちによって、喜悦が生じた。心内に喜悦が生じたために、身体は軽安(静か)になった。身体が軽安になった為に、楽しさを感じ、楽しさのために、心は定を得た。」

(翻訳者註:注釈によると、ここにおける「身体の軽安」は、物質的身体(色身)と精神的身体(名身)の両方を含む軽安であるとする。その他の要素は、精神的な方面にしか影響を及ぼさない。)

《長部・沙門果経》

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-25につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~サヤレーのドン引き多世界解釈

実は、私、物理は、まったくダメなのです。

高校の時の「物理」のテストは、いつも一夜漬けの丸暗記で、点数は50点前後、赤点でしたね。

熱と運動の関係とか言われても、さ~っぱり。

お茶を飲みたい時に、お湯が湧けばそれでいいじゃん、な~~んて。そんな訳ないか(笑)。

前振りはともかく、今『量子力学が語る世界像(多世界解釈)』を読んでいるのですが、難しい!!(元々、基礎が出来ていないのに、分かるはずない!?)。

でも、238ページの『「実在」は人間の意識の外にある』と言うのは、分かる気がしますね(直観です)。

老荘思想で言う「道(真理)は語れない」とか、イスラム教の「何事もアッラーのおぼしめし」とか、これらは、人知の外にあるものの存在を暗示している訳で。

物質は波でできていて、宇宙の最初(ビックバンor虚数時間)から、物質は波として広がって来ているから、(波の性質から勘案して)もう一人の自分(or多数の自分)が、もう一つ別の世界にいても不思議ではない、というのが(私が理解した所の)多世界解釈ですが、ちょっとワクワクしますね。

ゴータマ仏陀は、これ、分かっていて言わなかったのでしょうか?それとも経典を探せば、どこかに載っているのでしょうか?

知っていたとしても、言わなかったのでしょうね、多分。

仏陀は「四聖諦と関係ない事は、私は教えない」と、比丘たちに宣言していますからね。

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-23

今、我々は、止禅の主要な要点・重点は、定の因を育成することにあると、知った。

それならば、それに対して、更に研究を深めたいと思う。

実際、止禅には多くの因があるが、しかし、最も重要な直接原因は楽しさであり、そのため、我々はそれを「近因(=直接原因)」と呼ぶ。

邪因をなすと、邪定を得る;

正因をなすと、正定を得る。

このことを正しく理解しないまま、急いで定の修習をする人は、往々にして、邪定を得ることになる。

彼らは、一分(いちぶん)の時間を使って邪定を育成し、その後に、一分の時間を使って邪定を解除し、最後に、再び一分の時間を使って正定を育成する。

反対に、正定を育成すること(+の重要性)を知っている人は、先に半分の時間を利用して、何が適切で、何が不適切かを正確に理解するようにし、その後に、一分の時間を利用して正定を育成する。

このように、前者は三分の時間を使って、ようやく正定を育成するのだが、後者は、一分半の時間だけで、正定を育成することができるし、その上、マイナスの作用・影響によって、干渉を受けたり、混乱したりすることもない。

これが、なぜ、その種の修行者の行道は容易で、到達が速いかという理由である(楽行道は到達が速い)。

では、定の因とは何か?

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-24につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~読者の皆様へ(コメント欄は設けませんが)

私は緬甸(ミャンマー)のパオ森林寺院で出家したサヤレー(大乗で比丘尼に相当)ですが、中国語で書かれた法話(基本的には、台湾で出版されたもの)を日本語に翻訳し、当ブログにて、公開しています。

そのそもそものきっかけは、パオ・セヤドーの著書「智慧之光」(中国語版)を、台湾のパーリ語教室で知り合った法友から頂いたのが、始まりです(翻訳して、日本語版「智慧の光」として公開済み。HP『菩提樹文庫』にて、全編、閲覧可能)。

ただ、日本の長年の友人(主婦)から「あなたの翻訳、読んでみたけど意味不明」「もっと普通の、日常生活の事を書け」とお叱りを受けたので、その後は、<是誰庵のひとやすみ>を追加して、そこでは、日常雑感を書いています。

最近、<いいね>の☆をたくさん頂くようになりました。

読者の皆様とコメントで交流できれば、と思うのですが、やはり、会ったことのない、見ず知らずの人と、インターネット上で交流するのは、難しいと思います。

お会いして身振り手振り、表情を見ながらお話すれば、すぐに打ち解ける事が出来ると思いますが、人それぞれ、人生における歴史・背景があり、インターネット上では、その人を理解するまで時間がかかります。

そんな訳でコメント欄は設置していませんが、現在翻訳中の著書では、パオ・セヤドーの「顕正法蔵」、シッダッタ学院の「掌中の葉」など、これらには、瞑想者に欠かせない智慧が詰まっていますので、是非、参考にされて下さい。

                 Pañña-adhika Sayalay 敬具

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-22

◆結論:

(一)定を修習する時、我々は、定の特徴である「不散乱」、定の作用である「散乱の除去」、定の顕現状態である「不動揺」を、育成してはならない。

上記は、ただ、定の修習における結果に過ぎないのだから。

(二)定を修習する時、我々は、定の近因(=直接原因)、すなわち、楽しさを育成しなければならない。

 

正因と邪因

不適当な要素を育成する人、彼の行道は、艱難であり、到達は遅い(苦行の道は、進むのが遅い)。

適切な要素を育成する人、彼の行道は容易であり、到達は速い(楽行の道は、進むのが速い)。《清浄道論・第三品》

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-23につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~春ですね

明日、友人が是誰庵に泊まりに来るので、少し気合を入れて、いくつか、お料理を作りました。

釘煮。

きびなご(こうなご)を同量の醤油と砂糖で煮たもの。兵庫県の名物料理、らしいです。私は神戸生まれですが、子供の時、食べたことなかったです。

台所担当の祖母(台湾人)は、きびなごは、多めの油で炒めてましたね。中国人、台湾人は、魚は炙ったり、甘辛しょうゆで煮たりは、あまりしないですね。魚は、油で両面ソティーにするか、蒸すのが多いです。

蕗味噌。

裏の空き地にフキノトウがワンサカ、顔を出しています。

昨日、隣のおじさんがバケツ一杯採っていて、私を見かけると、ちょっとばつの悪そうな顔していました。

他人の空き地(地主は都会にいて戻ってこない)とはいえ、独り占めしたみたいで、ちょっと良心が咎めたのでしょうか。

私はその二、三日前に、丼一杯分くらい摘みましたから、もう十分です。女性で一人暮らし、それほど食べられるものではありませんものね(次は、まだ細い蕗を煮て、キャラブキにするのが楽しみです)。

酢味噌。

これは、我が家の庭に一杯生えている、野カンゾウの若芽を和えるためのもの。酢味噌和えなんて、めったに作らないので、分量と作り方は、インターネットのレシピを見ながら(分量さえ分かれば簡単です)。ついでに、こんにゃくも茹でれば、味噌田楽ですね。

もうすぐヨモギも生えてきます。

今年は草団子を作ってみようかな。餅つき機ともち米はそろっているので、草餅ですね。

大昔、実家には、お菓子用の木型があって、春になると、祖母が亀の形をした草餅を作ってくれました。

掌くらいの、草色の、亀の形のお餅を割ると、亀のお腹にあんこが入っていて、ヨモギの香と甘いあんこ、美味しかったなぁ(底に敷いたのは、竹の皮で、これがまた、ほのかに香るのですよね。)

日本語ができない祖母が、どうやって材料をそろえて作っていたのか、末っ子でお祖母ちゃん子だった私は三文安、トント覚えていないです。

祖母と山に入って、ヨモギを摘んだのが、今となっては、よい思い出です。

Y盆地は、これから桜と菜の花の競演になります。

楽しみですね。

 

 

是誰庵のひとやすみ~ニューカレドニアって、あんた!

私は緬甸(ミャンマー)で出家した尼僧で(緬甸では比丘尼ではなく、サヤレーと呼ぶ)、日本では九州の片田舎で一人、庵を結んで住んでいます。

そんな私が、家族の事を話すのは「おいおい、家族がいたんかい!」と言われそうですが・・・(笑)。

私には息子が二人いて、長男は会社員、二男はカメラマンです。

この二男の facebook を覗いてみたら、四日前に<某雑誌の依頼で、野球選手の写真を撮った><これがその写真です>というお知らせがあったので、「おっ、元気に仕事しているな」とちょっと安心していたのですが、今日、facebook を見てみると、<俺、今、ニューカレドニアにいます>って、ちょっと、あんた!

親が出家して、俗世を厭離しているからと言って(いや、まぁ、それほど俗世が嫌いなわけではありませんが~笑)、地球の裏側?に行くときくらい、親に言ってから行きなさい!(しかし、この子が9年に及ぶ世界放浪の旅に出たときも、事後承諾だったなぁ・・・。私が嘆くと、友人は「母親の遺伝じゃね」と、鼻で笑っていましたっけ。

やんぬるかな。)

ちなみに、俗世とか世俗というのは、本来は、住んでいる場所を指すのではなくて、心の内面を言います。山奥に住んでいてもイライラしていれば、厭離とは言はない、訳です。