Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-41

理論的な(+ことを理解する)智慧は、パーリ語でpariyatti(教理)といい;修行によって直接、見通す(=透視する)智慧は、パーリ語paṭipatti(行道)といい;真理を透視するパーリ語は、paṭivedha(通達)という。

慧は、善根の一つであり、その他の四つの根と同時に育成しなければならない。すなわち、信根、精進根、念根と定根である。この五根を育成することを通して徹底的に四聖諦を知ることができる。

慧は、無明を克服する、その最たる重要性によって、根となる。

それは、見(見とは、無常、苦、無我の三相を知ることでもある)の特徴によって、それと相応する法(心と心所)を掌握・コントロールするものである。

《殊勝義註》の中の、同一の節の中において、慧の特徴は、照明(=明るく照らす事)と理解である、と言う。

それは以下のように説明される。

ちょうど、熟練した医師が、どのような食物が適切であり、どのような食物が適切でないかを知っているのと同じように、慧は、諸法が善であるか、不善であるか、有用であるか、無用であるか、低劣であるか、殊勝であるか、汚染されているか、清浄であるかを知っているのである。

育成された慧は、四聖諦を知見することができる。

《殊勝義註》では、更に進んで、慧について、もう一つ別の定義を、定めている:

慧の特徴は、徹底的に究極法の自性相に従うことによって、それらを知り、まったく一つの疑いもなく透視し、神の射手が射た<的の中心(目標)>そのもののようである。

慧の作用は、目標を照らす灯火のようであり;

現象は、迷わない事で、それは、まるで森の中の、非常に優秀なガイドのようである;

近因(=直接原因)は、定である。

というのも、仏陀は以下のように、言っているのであるから:

「定を有する者は、諸法を如実知見することができる。」

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-42につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-40

諸法を如実知見する事は、仏教の目標である。

智慧は、必ずや、何が究極法で、何が究極法でないかを、知ることが出来なければならない。

邪見がある時、我々は諸法を、如実知見することができない。

究極的には、人、動物、また家屋は真実(+の存在)ではない。

それらは、究極名色法、または究極法に構成・組成されているだけなのである。

究極的には、真実とは、究極名色法である。

それらは、自性を有している。

それらが、一つ一つ、六門の内の一つに顕現する時、それらの自性を、直接体験することができる。我々は、定と慧を育成することを通して、仏陀の教えの真実性を、証明することができる。

その時が来れば、我々は、究極法とは、常なのか無常なのか、究極法をコントロールできる人または自我があるのかどうか、を知ることができる。

一つ一つの究極法は、みな、それぞれに自性の相を有している。その自性を識別することを通して、それとは別の究極法を、区別することができる。

もし、直接、究極法を見通す(=透視する)智慧を育成しようとするのであるならば、究極法の自性の相を知るだけでは、足りない。

定力を基礎として、段階を追って、智慧を育成し、その智慧をもって、有為の究極法の三種類の共相(=共通する相):無常相、苦相、無我相を見通す(=透視する)ことができるようにならなければならない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-41につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-39

8-6-2-5 慧(paññā)

アビダンマにおいて、慧(paññā)、智(ñāṇa)と無痴(amoha)という、この三種類は、同義語である。

ある時は、慧は、慧根(paññindriya)と言われる。

慧は、如実に、究極法を知る:心、心所、色法と涅槃を。

ここにおいて、それを根と呼ぶのは、究極法を如実に知るためには、それが最も、重要であるからである。

慧は、多くの種類があり、また、多くのレベルがある。

善法の利益を知り、不善法の欠点を知る智慧、また、生命の短さを思惟し後、それによって生じる智慧など等。

たとえ、仏法を聞いたことがなくても、これらの智慧は、生起することがある。

仏法を学習した後、究極名色法及びそれらの諸因(すなわち、業報の法則)を、理論的に理解する智慧。

智慧が向上すると、究極名色法、業報の法則、または縁起を、直接見通す、智慧が生じる。究極法を直接見通す智慧は、最高のレベルまで、育成することができる。

それはすなわち、順序良く涅槃を証悟することと、一切の煩悩を滅する、聖道の智慧である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-40につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-42

モッガラーナ比丘は、諸々の比丘に告げて言った:

「諸君、私はこの葉毘尼河の川べりで、不動三昧(第四禅)に入った時、群象が河を渡るために流れに入った時に出した声を聴いた。」

比丘たちは、恨みがましく、不満で、憤慨して言った:

「長老大モッガラーナは、不動三昧に入ってもなお、音を聞くのですか?長老大モッガラーナは、上人法(大妄語)を言っている!」と。

彼らは世尊にこのことを知らせた。

世尊は言う:「比丘たちよ。彼には、この種の三昧があるのです。ただ、純潔が足りないのです。モッガラーナが言っているのは事実です。モッガラーナは戒を犯してはいない。」

 

究極のレベルでは、安止定の一つ毎の心識刹那は、定の修習における目標を対象としていて、同時にその他の目標を認識することはない。当然、音が聞こえる、ということはない。

修行者が色界定に入った時、これらの安止定の心識刹那は色界心である:修行者が無色界定に入った時、これらの安止定の心識刹那は無色界心である。そして、心の生・滅の速度はあまりにも速すぎて、一秒間の間にも、数万億個の心識刹那が生・滅し去るのである。

故に、一回の瞑想・静坐の時間において(+生じる)、心識刹那の数は、多くて数えきれないほどである。

修行者の定力がいまだ、純化されていない時、一回の瞑想・静坐で、彼の心は、安止定から、何度も出たり入ったりする。たとえこのようであろうとも、我々は、彼は安止定の境地に到達したと認めるものである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-43につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-41

心が、この種の、微細な体験を処理することに益々上手になれば、中等の精通が得られる。

この時、心が安止定に安住する時間は、徐々に長くなる。

修行者は、徐々に、安止の五種類の基本的な自在を体験するようになる。すなわち、入定自在、住定自在、出定自在、転向自在及び省察自在である。

上等の精通とは、定力の高度な展開と、長時間入定が持続することである。上等の精通に到達するのは容易ではない。長時間入定したいと思う時、多くの要素が完全に整っていなければならないし、調和も必要である、身体の健康も含めて。

安止定を理解する為には、ある一つの重要な項目をはっきりとさせておかねばならない:

通常、人を迷させるのは、「なぜ、私は安止定にあっても、音が聞こえるのか?」という疑問である。

このような疑問が生じるのは、「安止定」の語彙が、異なった二種類のレベルで使われているからである:

それは、相対的なレベルと、究極的なレベルと、にである。

我々は、このことを更に詳しく、正確に検討しなければならない。

相対的なレベルで安止定に入った人は、なお、音が聞こえてくるものである。仏陀はこの状況を「定がいまだ純化していない」と言った。

ちょうど、モッガラーナ尊者の例のように:

彼は第四禅の中に安住していたが、象の叫ぶ声は聞こえてのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-42につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay> 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-40

問題五:精通のレベルで分類するならば、定は何種類ありますか?

回答五:三種類である。

「得たばかりの定は下等で、まだ熟練していない定は中等で、非常に熟練し、かつ自在である定は、上等である。」《清浄道論・第三章・第10段》

 

《清浄道論》では、(+定の)精通について、下等、中等、上等という三種類のレベルを提示している。ここにおいて、我々は、安止定を例に、レベルに関する意味を、解説してみたい。

下等の精通とは、安止定を獲得したばかりの状況を指す。

ちょうどある種の初心者のように、ただいくつかの、心識刹那の安止定を経験した後、また近行定に戻る、という事である。

これは、ちょうど、地面を這っている幼児のように、突然立ち上がるものの、転んで、また元のように地面を這う、のと同じである。

彼は、色々な手段、テクニックを用いて、立っている時間を延長することができるが、これは、一日二日で成功できるものではない。

定の修習について言えば、我々は、安止の時間が長くなるようにと、己の心を強要・強制してはならず、10種類の安止に関する善なる方法(《清浄道論実修ハンドブック》参照の事)を尊重・参照して、これによって安止の時間を延長するのがよい。

同時に、(+我々は)毎日、修行しなければならない。というのも、進歩とは、時間がかかるものであり、不断に練習しなければならないものなのであるから。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-50につづく)

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-38

目標への専注、という作用を持つ ekaggatā は、通常、一境性または、定と訳される。

一たび「定」と聞くと、我々は、一境性は止禅の中にしかない、と思いがちである。

がしかし、事実はそうではない。

止禅の修習をする時、一境性が進歩を提供する(+という風に考える)のは正しいが、しかし、それは止禅に限った事ではない。

一境性は、一切の心に随伴している。

ただ、異なった心理に伴って、その性質が異なってしまうだけである。

不善心に伴う一境性は、邪定(micchā-samādhi)と言い、善心に伴う一境性は正定(sammā-samādhi)と言う。

定は、一境性心所の、もう一つ別の呼び名なのである。

邪定と正定は、共に一境性心所であるが、しかし、それらの性質は異なっている。

正定は、正確、または善なる方式で、目標に専注する事、である。

定には多くのレベルがある。たとえば、初禅定、第二禅定など等である。

《法聚論》(Dammasangaṇi)の注釈である《殊勝義註》は、正定に属する一境性を、以下のように説明している。

この定は、名を一境性と言う。

己自身が散乱しない、または相応する名法を散乱させないという特徴を擁する;

ちょうど、水が、洗濯石鹸を練り合わせて糊状のするように、具生の法を結合させる作用がある。

その現起(=現象)は、心または智の静寂である。

というのも、(経の中で言う):「(心の)定まった者は、真実なる法を如実知見する」からでる。

通常、それの近因は楽(sukha)である。

我々は、心の安定・静寂とは、無風の下での、灯火のように安定していることであることを、理解しなければならない。

正定は五禅支の一つである:

止禅において禅支を育成するのは、五蓋を鎮伏して、ジャーナを証得する為である。

ジャーナを証得しようとするならば、尋(vitakha)、伺(vicāra)、喜(pĪti)、楽(sukha)及び定(samādhi、すなわち、一境性)を、必ず、育成しなければならない。

すべての禅支は、業処(たとえば、安般念)を修習することによって、心が軽安を獲得するのを支援する。

観禅における正定もまた、存在する。

我々が知っている通り、《特殊義註》で言われる一境性心所または、定の二番目の現起(=現象)は、智でり、真実の法を如実に知見することであり、それはすなわち、智慧である。

智慧でもって、究極名法または究極色法を如実に知見する時、正定は、まさに己の任務を遂行しているのである。

例をあげれば、智慧でもって、究極名色法及びそれらの因の無常、因の苦または、因の無我の本質を如実知見する時、正定は、正確な方式でもって、同一の、一個の目標に専注する。

正定が、涅槃の出世間慧(正見)を伴う時、それは、涅槃に専注する。

その時、正定は、出世間八聖道分のその中の一道分になるのである。

(+ )(= )(下線)訳者。句読点等原文ママ。(5-39につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>