Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-49

また、信と慧とを、バランスしなければならない。

止禅の業処を修習しようとする修行者にとって、強固な確信は、有益である。

というのも、多少信へと偏向した心は、安止(+定)へと導くことができるから。

もし人が、「安般似相に専注する定力を育成したならば、私は必ずジャーナに到達することができる」と思うならば、信の心と、当該の禅相に専注することによって、彼は必ずや、ジャーナを証得するであろう。

というのも、ジャーナとは、主に、定力に依存するものであるから。

定と慧のバランスも考慮されるべきである。

止禅の業処を修行する者は、強固な一境性が必要である。というのも、彼は、強固な一境性によって、安止に到達するのであるから。

観禅を修行する者は、強固な慧が必要である。というのも、彼は強固な慧を通して、諸々の相を透視するのであるから。

定と慧がバランスする時、禅の修行者はまた、安止に到達する。

観禅の修行者にとって、慧根は非常に有益である。というのも、慧根が強い時、彼は三相を透視することができ、(+それによって)無常・苦・無我の三相の智慧を、獲得することができるのであるから。

定と慧がバランスする時にのみ、世間禅(lokiya-jhāna)は、生起することができる。

仏陀は、定と慧の両方を、並行して修行しなければならない、と教えた。

というのも、出世間禅(lokuttara-jhāna)もまた、定と慧のバランスによってのみ、生起するのであるから。

信と慧のバランスであっても、定と精進のバランスであっても、定と慧のバランスであっても、念根は、必ず必要とされる。

念根は、すべての状況において適用される。

というのも、念は心を保護し、心をして、強すぎる信、精進または慧によって、掉挙に陥らせたり、強すぎる定によて、怠惰に陥らせたりすることを、防ぐことができるのであるから。

故に、すべての状況において、念は必要である。それはすべてのスープには、塩が必要であるように、また国王のすべての政務は、宰相によって処理されるが如くに。

故に、古い注釈において、「世尊は言う:『念は、どのような業処においても必要である』」と述べられているのである。

なぜか?

というのも、修行する時、念は、心の拠り所であり、保護者でも、あるからである。

念は拠り所というのは、それは心を助けて、心をして、以前において到達したことのない、以前において知らなかった、高度な境地に到達せしめるからである;

もし念がなければ、心はいかなる超凡の境地、非凡な境地にも、到達することはできない。

念は心を保護できるし、禅の修行における対象を見失わないようにすることが、できる。

これが、なぜ、禅の修行者が、以下の事が実践出来るのか、という理由である。

すなわち、観智でもって念を識別する時点で、彼が見ることになる念の現象は;それは、修行において専注している対象を保護する事ができる上に、また、禅の修行者の心を保護することができる(+ということである)。

もし、念が欠けている時、禅の修行者は己の心を策励する事も、制御する事もできない。

これが、なぜ、仏陀が、念は、一切の状況において、応用、適用することができる、と述べた理由である。

<《清浄道論》第四章、第49節;《大疏鈔》第一冊、参照の事>。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-50につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-48

また、もし、定が強く、精進が弱い時、定には、懈怠を生じる傾向があるために、心が懈怠に征服されてしまうことがある。

故に、あなたは、気の抜けた、だらしない心で、安般念似相に専注することをしてはならない。というのも、そうすると、それは懈怠の助縁になるから。

もし、精進が強くて、定が弱い時、精進には掉挙(心の騒がしさ、浮つき)と不安定の傾向があるため、心が掉挙に征服されてしまうことがある。故に、あなたは、あまりに過剰に(精進性を高めて)安般念似相に専注しようとしてはならない。

ただ定根と精進根がバランスする時のみ、心は懈怠または掉挙に落ちないで済み、その時、ジャーナに入ることができる。

精進と組み合わさった定は、怠惰に落ちないし、定と組み合わさった精進は、掉挙(浮つき)に落ちない故に、両者がバランスされたときに、安止(+定)に到達することができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-49につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~日本の仏教界

先日、新しく開業した病院に行きました。

最近、血圧、息切れ等、少々気になる体調の変化がありましたので(結果は、ノープロブレムでしたが)。

それで、頭が坊主になっている理由を、初対面の医師に説明した所、大変に驚かれて、二人の看護師さんと一緒に、色々話を聞いて下さいました(新規開店の病院なので、患者さんは、私一人だったこともあって~笑)。

南伝仏教テーラワーダ)の僧侶は、戒・律が厳しい事。

出家者は、独身か、または、家族をおいて、お寺に住む事(法的な離婚を、する必要はない)。

出家の日常生活は、修行が主で、儲け仕事にはつかない事などなど(そのために、近隣の在家の方々、また大旦那~大口の布施をするサポーター、檀越~が、全力で、修行生活を支えてくれる)。

「日本の仏教とずいぶん違うなぁ」これが、私の話を聞き終えた、お三人の感想でした。

結婚して、子供を産んで、その子にお寺を継がせて・・・、タナボタでお寺を貰った子は、何のために修行し、誰のために役立たねばならないかを、明確に理解し、決意することができるのでしょうか?

今は、戒名はいらない、お墓はいらない、直葬で十分、という人が増えました。

日本の仏教界はちょっと変だ、と誰もが気が付き始めたのです。日本の仏教界は、本来の働きを取り戻すべき時代が、来たのではないでしょうか?(私は緬甸のパオ森林寺院で出家しましたが、テーラワーダ至上主義者ではありません。人間がやる以上、テーラワーダ内部にも問題はあるし、大乗にもよい部分は一杯あると思います)

是誰庵のひとやすみ~女性の阿羅漢

タイや緬甸(ミャンマー)には比丘はいても、残念ながら、比丘尼は存在しません。その歴史的経緯を書くと、長くなるので、割愛させて頂きますが。

もし、女性の阿羅漢が出て、その人が女性出家希望者を受け入れたならば、テーラワーダ南伝仏教)でも、比丘尼が誕生する可能性はある、と言われています(その理由は、ゴータマ仏陀が、当時のインドでの、女性の地位、自治を尊重したのが初因ですが、これも長くなるので、説明は、割愛させて頂きます)。

先般、海外にいるサヤレーから一冊の本(中国語版、インドネシアで出版)が届けられました。題名は「メーチー・ケーウ 阿羅漢尼僧修道証悟の旅」。

タイでは、女性出家者は、比丘尼と区別してメーチと呼ばれます(緬甸ではサヤレー)。そのメーチが阿羅漢果を悟った、というのです。

ざっと目を通しましたが、目からうろこの、我々修行者に励みになるような、よいことが一杯書かれています(凡夫の私がなんとなく「阿羅漢というのは、こうなんだろうな」と思っていた部分が文章化、言語化されていて、非常に頼もしい)。

くだんのサヤレーには「この本を翻訳する」と、約束しました。

現在翻訳中の『顕正法眼』『「掌中の葉』、少々筆が止まりぎみの『目の中の塵』が終わりましたら、「メーチ・ケーウ」を翻訳します。

タイ語が中国語に翻訳されると、地名、人名は、漢字の当て字表記になって、まるで判じ物ですけれど、メーチ・ケーウは、アーチャン・マハー・ブーワの弟子らしいです。これが読み取れただけでも、まずは、ホッとします~笑。

ちなみに、アーチャン・マハー・ブーワの兄弟弟子がアーチャン・チャーで、お二人の上位指導僧がアーチャン・マンです。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-47

同様に、もし、その他の諸根、たとえば、定根、慧根が強すぎる時、よくない影響が起こる。

どれか一つの根が強すぎる時、その他の根が、各自の任務を遂行できなくなる事を、(+修行者は)知っておくべきである。

そして、信根と慧根、定根と精進根のバランスは、諸々の聖者が讃嘆するものである。

もし、信が強く慧が弱い時、迷信になりやすい。こういう人は、真実の利益に欠けた、または内容のない対象を信じ、崇拝したりする。

彼らは、正統な仏教以外の宗教が信仰、尊敬する対象、たとえば、護法の神などを、信仰する。

反対に、もし、慧が強くて信が弱い時、人は狡猾になり易い;自分自身は実際に修行をしないのに、一日中、批判や論評をするようになる。

彼らは、薬を飲み過ぎて(+副作用で)病気になったようで、治療するのは困難である。

彼は思う:「想像さえすれば良いのであって、実際に布施をする必要はない。それでも布施の善業は、得られる。」と。

彼は己の狡猾さと、業報の法則への誤解ゆえに、その被害者となる。

彼は智者の言葉を理解できないし、真理を理解することもできない。

故に、(+彼らは)薬を飲み過ぎて(+副作用で)病気になったようで、治療するのは困難である、と言われる。

信根と慧根の二者をバランスする事を通して、人々は、真実と、内容のある事柄だけを信じるようになる。

そして、信と慧がバランスすると、信じるべき事柄を信じることができる様になる。

彼は三宝を信じ、業報の法則を信じ、もし、仏陀の教法に従って安般念を修行するならば、彼は、安般念似相を体験して、ジャーナに到達できることを確信する。

もし、このような信心(=確信)を持って修行し、かつ智慧を運用して似相を見通す(=透視する)ならば、この時、信根と慧根は、バランスすることができる。

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。(5-48につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~期待値を下げる

先日、ある地方のおばぁさんから電話があり、人生相談に乗ってくれ、との事。

息子に呼ばれて、息子の車に乗ったら、お嫁さんとそのお母さんが一緒で、日帰り旅行をしたけれど、自分一人だけ浮いて、楽しくなかった、と言うのです。

息子さんが、奥さんに気を使って、奥さんと、奥さんのお母さんに優しくするので、実の母親に、優しくする時間が、なかったのでしょう。

でも、「一緒に行こう」と呼んでくれたのですよね。

まぁ、良しとしましょうよ。

そして、息子さん、お嫁さん、先方のご母堂、皆他人なんですから(この場合、息子は嫁さんのもので、立派な<他人>です)、他人には、過度に期待しないように、とアドバイスしました。

これ、期待値を下げる、といいます。

幸い、このおばぁさんは、お小遣いが潤沢らしいので「また同じことがあったら、行った先で、自分のお金でおいしい物を食べて、何か素敵なお土産でも買って、自分で自分を喜ばせるべし」と伝授しておきました。

(他人への)期待値を下げる。

これ、使えますよ。

 

是誰庵のひとやすみ~クムダ・セヤドー来日

先月末、クムダ・セヤドーが来日されました、日本の方がたに、瞑想指導をする為です。

セヤドーは、モーラミャインにある、パオ森林寺院のヤンゴン分院(モービー僧院)の住職さんで、私の二回目の出家の時の、戒師を務めてくださいました。とても優しい感じの比丘僧侶です。

現在この時間は、東京で瞑想を指導しておられると思います。

東京では、在京の緬甸(ミャンマー)の方々への説法も欠かせません。クリスチャンが日曜日ごとに教会に行くように、本来の仏教徒は、月に何度か、お寺に集まって(泊まって)戒を守り、説法を聞いたり、座禅・瞑想したりするので、東京の緬甸の方々も、このチャンスを逃すわけにはいかない事でしょう。

九州は、糸島で一泊瞑想会が開かれます。

私は、運営について、直接タッチしていませんが、参加したいと思っています。

日本の片田舎で、自分一人でパオ式瞑想をしていると、どうしても自己流になりがちですから、そこの所を質問したいと思っています、セヤドーは日本語を話されないので、通訳さんを通してですが。

再会できる日を楽しみにしています。