Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-41

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

五、学生の任務の履行

世尊は≪犍度≫の中で、下記のように言う:

「比丘!門人は導師に対して、正務を履行すべし。」

《清浄道論・第三章・第71段》

【学生の任務】

1、教師の日常生活・飲食など、たとえば家屋の掃除などを、補佐する。(第71段)

あなたはもしかしたら、これらの任務が、苦手かもしれない。

しかし、あなたは代わりに、その他の物資を提供する事もできる。

あなたは、このような方式で以て、教師に感謝を示し、同時に、このようにすれば、教師が、あなたや他の人を助ける時の負担を、軽減する事ができる。

最も重要な事は、あなたが布施や供養をする時には、謙虚でなくてはならず、このようにして初めて、更に良好な善業を植え、益々の助縁とすることができるのである。

2、教師への尊敬(第72段)

唯一、尊敬と謙虚な気持ちを持ってこそ、あなたは真正に、教師の祝福を得ることができる。

教師に対し、円満に正務を果たして、教師に喜んでもらう為に、学生もまた、夜には、教師に礼拝しに行くべきである。

3、学生が病気や身体に痛みのある時、適切な時期に教師に教えを乞う為に、己の状況を教師に知らせるべきである。(第74段)

個人的な面談も非常に重要である。(+修行は一般の)普及教育とは異なる。というのも、教師は学生一人一人の個人に対して、その進捗を指導するのであるから。

もし、必要であれば、教師とは毎日面会してもよく、こうすれば、教師の与えた毎日の日課に精進発奮し、完成する事もできる。

あるいは、初めのころ、あなたは毎日の一滴一滴の正しい指導・指摘は、あなたに進歩を齎すかどうか、察知することができないかも知れない。

しかし、日が久しくなると、あなたは己が神速の如くに、進歩していることに、気が付くに違いない。

これこそが、いわゆる「雨だれ石を穿つ」「塵も積もれば山となる」である。

世俗から修行の道の進むとき、これは最も有効な方法ーすなわち、感化を受けて知らず知らずの内に変容することーーである。《清浄道論・第三章》

◆結論:

学生の任務は以下を含む:

1、教師の日常生活・飲食等、たとえば、家屋の掃除などを補佐する。

2、教師を敬う。

3、学生が病気であったり、身体に痛みのある時、己にとって適切な時期に教師に教えを乞う為に、そのことを、教師に知らせるべきである。

(4-1につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-40

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

四、己を教師にゆだねる

「尊者、私は今、自身をあなたにゆだねます!」

《清浄道論・第三章・第128段》

もし、己自身を捨てる事が出来ないのであれば、以下のような性質を持つ人間になる。すなわち:

指摘を受けるに耐えられず、頑固で、忠告に耳を貸さない。

または、教師に尋ねないまま、己の欲する所のままに、あちらこちらに行く。

このような人間に対して、教師は財の施もしなければ、法の施もしない。そのため、彼は典籍における奥義を、学ぶことができない。

《清浄道論・第三章・第26段》

上記の事柄は、あなたが(+教師に)質問をしてはならない、などと言っているのではない;

あなたは教師に、尊敬の念を持って、教えを請わねばならない。また、このことは、あなたが教師の示した指示内容を、教師と議論してはならない、ということでもない。

教えを乞うた後、また議論の後、あなたの教師は依然として、あなたのロジックの範囲外の事をさせようとするだろう。

もし、彼が、上述の通りの良い教師であるならば、あなたは出来るだけ、彼の指示に従うべきである。

初めの頃、あなたは多くの物事を理解することができないかもしれないが、しかし、巨大な信心(=信頼感)と尊敬の心でそれらを実践する時、それらを、己自ら体験した後において、あなたは更に深い理解が、得られるであろう。

それは、あなたの持つ、正規のロジックと推論の範囲の外の、更に高度なレベルの事柄なのである。

解脱ーーこの究極的な快楽(=楽しみ)は、世上での、最も貴重なものである。

普遍的な快楽を求めるにしても、あなた長年の教育を受けねばならないし、その上に仕事にも奮闘しなければならない。そうして、その後において、物質上の些かの享受と、快適さが手に入るのである。

しかしながら、心霊上の快楽・禅定が齎す快楽は、更に高度なレベルのものに属しており、それは非常に、貴重なものなのである。

故に、学生としては当然、精進しなければならないが、特に、教師の指示に喜んで従う気持ちを保ちつつ、己自身の変容を目指すことが肝要である。

こういう事から、教師は、劣等なる学生に、奥義の典籍を教授することはないと、言われる。

◆結論:

(一)教師を通してしか、我々は、修行における、奥義の部分を学ぶ事ができない。

(二)自身の我執と我慢(=我ありと言う傲慢)を捨てることができないのであれば、(+尊い教えを)教授される事はない。

(3-41につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-40

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

次に、もし、あなたが仏陀より、自分の方がましであると信じているならば、あなたは通常、自身が持つ枠から、飛び出すことは、非常に困難である。というのも、我々の生命は、自分自身の思想と信念の影響を、深く受けるからである。

凡夫の身である我々にとって、一切の世俗の享楽を放棄することは、非常に難しい。

我々は、いくらかの正見を持つことはできるけれども、しかし、貪・瞋・痴の煩悩は、已然として強く盛っている。

もし、あなたが、一般の人々と付き合うならば、あなたは古い悪習を再び始めたりする。

たとえば、飲酒、賭博、(+知人と)やたらに交わったりするようになる。これらは、ただ、時に即してはいても、しかし、不善な快楽(=楽しみ)しか齎らさない。

唯一、我々が、仏陀の教えに堅固に従い、かつ全力で仏世尊に心を傾ける時にのみ、我々は、誘惑、神秘、幻象が充満した、空虚・空洞なる、この欲界から抜け出すことができる。

そうでなければ、あなたは非常に易々と、再び、不善の中に沈潜してしまうのである。

◆結論:

自身を世尊に捧げる利益とは;

1、あなたが人のいない僻地で、身の毛もよだつ恐ろしい事態に出会った時、あなたは恐怖心を取り除くことができる。

2、世尊への信心(=信頼)は、その他の一切の善法を強化・発展させる事ができる。

3、一切の世俗の享楽からの誘惑を、超越することができる。(3-40につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-39

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(+上記の)偈の中の25年とは、彼が、仏陀の侍者として、過ごした時間である。

その間、彼は、初果ソータパナ聖者に過ぎなかった。初果ソータパナは、いまだ貪と瞋の煩悩を断じてはいない。そのため、ソータパナの心の中には、欲念と瞋念とが生起する。

アーナンダ尊者が、25年という長きに及んで、侍者を務める事ができたのは、心の中に、欲念と瞋念が生起しなかった為であるが、これは、彼が常に、仏陀の傍に追随していた事が、原因である。

更に重要なのは、彼の、仏陀に対する堅固な信心(=信頼)と、敬虔な奉仕の故に、彼の心の中には、欲念も瞋念も生ずる事がなかった事である。

優陀夷(Udayi)比丘は、ある時、アーナンダ尊者を、このように批判した。

アーナンダ尊者は、かつて世尊にこのように訊ねた。

彼(=仏陀如来)の声は、宇宙の中において、どれほど遠くへ伝わるものなのでしょうか?

世尊は答える:

諸仏は測ることができないのです。(+諸仏の)声は、一千世界(一千日、一千欲界天、一千梵天を含む)よりさらに遠くへ(+伝わり)、また、三千世界より更に遠くへも、伝わります。

彼らの放つ光は、一切の世界を穿ち通り、あまつさえ、声と共に、そこに住んでいる衆生に届きます。

アーナンダ尊者は、それがすべてのものを包括し、かつ一切のフォースを超越しているという、このような描写を聞いて、とても喜んだ。

彼は感嘆する:

「私は本当に幸運だ。このような全能で、大勢力を具有する無上師がいらっしゃるなんて!」

優陀夷は彼を責めた:「アーナンダ、わが友よ。あなたの大師は大勢力を具有しているが、それが一体全体、あなたとどのような関係があるのか?」

これは、手厳しい指摘であった:

アーナンダはずっと、ただただ仏陀その人を見つめ続け、己自身の真実の利益ーー己の覚醒と悟りーーをなおざりにしていたから。

仏陀は即刻、アーナンダの傍に来て立って、述べた:

そうではない、優陀夷!

そうではない、優陀夷!

もし、アーナンダが、完全な解脱を得ないで死んだならば、彼の心清浄のおかげで、彼は天王に七回生まれ変わるか、または南瞻部洲の王に、七回生まれ変わる。

しかし、優陀夷!

アーナンダはこの一世において、究極なる解脱を証得するであろう。

≪増支部・三法集・第80経≫

(3-40につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-38

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

三、己を世尊に捧げる

もし、あなたが、人のいない辺鄙な所にいて、身の毛もよだつ恐ろしい事態に遭遇したならば、あなたは以下のように、考えるべきである:

「私は、己を仏陀に捧げる明智もないのか?」と。

このようにすれば、最高の帰依処ーー仏陀ーーを信じる力によって、あなたは、恐怖心を取り除くことができる。

帝釈天王、天神の王と四天王でさえも、厄難に遭遇した時は、恐怖を感じるものであるが;

仏陀は、いかなる状況にあっても、恐怖を感じることはない。

彼は真実、無畏の大智者であり、絶対的に頼りになる帰依処である。

≪旗幡経≫≪Dhajagga Sutta≫の中で、仏陀は比丘たちに、厄難に会ったならば、ただひたすら、彼を思い起こし、その後に、仏陀の功徳を憶念すべし、と告げた。

というのも、仏世尊は、すでに、最も凶悪な悪魔と対面しても、二度と、恐れたり、退いたりすることがないからである。

仏陀の法力は無辺であり、彼は、我々が得る事の出来る最高の護衛であり、最高の加持である!

アーナンダ尊者がいまだ、解脱を追求している最中の、ソータパナであった時、彼は己自身について、以下のように述べた:

  25年の時を経て、

  私は不断に修行に励み、

  世間的な欲念はいまだ生じず;

  最も優れた仏法を洞察し、見る。

  25年の時を経て、

  私は不断に修行に励み、

  世間的な瞋念はいまだ生じず;

  最も優れた仏法を洞察し、見る。≪長老偈≫

(3-39につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-37

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

【引証】仏陀は言う:

定を尊重すると、仏法を久しく住(トド)める事ができるーー《相応部・16迦葉相応・第13経》

「迦葉、五つの事柄は、正法を久住、不衰、不失にする事ができる。

どの五つか?

ここにおいて、比丘、比丘尼、男性居士、女性居士の

導師(仏陀)に対する尊敬と尊重、

法に対する尊敬と尊重、

サンガに対しる尊敬と尊重、

戒に対する尊敬と尊重、

定に対する尊敬と尊重である。

迦葉、この五つの事柄は、正法を久住、不衰、不失にする事ができる。」

なぜこのように言うのか?

なぜ仏陀は、禅の修法の中から、「定」を選び出して、その重要性を何度も強調するのか?

というのも、仏法は非常に奥深いもので、智者によって納得、証悟されるものであるからである。

仏法は、事・物の真実の本質を照見することにあり、そして、真実の本質とは、非常に奥深いものなのである。

あなたは、一秒ごとに何万億個の心識刹那が出現するのを、知ることができるだろうか?

もし、あなたの心があちこち走り回り、分散されているならば、あなはどのようにして、最も小さい単位である心識刹那を洞察・透視(=徹底的に見る事)することができるだろうか?

もし、あなたが実相を洞察する事ができないのであれば、あなたは、また、最も高度な安楽である涅槃を、どのようにして証悟しようというのだろうか?

「この法は、定のある人に与えるものであって、定の無い人に与えるものではない」

≪増支部・八法集・第30経≫

実際、輪廻の大苦聚は、無明から来ているーー言い換えれば、実相を知らないが故、である。

もし、あなたがすでに修行者であるならば、私はあなたが、多くの仏法を学んだ事があるであろうと思うし、また(+あなたは、仏)道を修行するべきだと確信している。

しかしながら、問題は、書物から得た理解は、それだけのことであって、実践はまた、別の事柄である、という事である。

(+私は)あなたが、諸法無我に同意するとは思うが、しかし、あなたはいまだ、無我であることについては、(+体得・実践)出来ていない。

このことの原因は、いくつかの煩悩は、学習を通して得た智慧によって取り除く事ができるが、しかし、更に深い煩悩は、唯一、あなたの心が微細で奥深い実相を透視できた時にのみ、取る除くことができるからである。

このことに関して、定がないならば、(+修行に)成功することはないのである。

◆結論:

(一)定の利益は以下を含む;

1、現法楽住を得る。

2、殊勝な知見を得る。

3、分別慧を得る。

4、永遠に諸々の漏を尽滅する。

(二)定を尊重すると、仏法を久しく住めることができる。

(3-38につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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☆「掌中の葉」(翻訳文)3-36

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(四)渡り難き暴流を渡る(諸々の漏を、永遠に尽きる為に)

涅槃を証悟するために、あなたは、持続的な、不断の精進力でもって、あなたを三界に絡め取っている堅牢な結(=結び目)を、解かなければならない。

定力は、あなたに、何層にも層をなしている、因と縁の実相、最も微細な心法と色法の部分までもを透視する能力を、付与する。

禅定を通してのみ、あなたは速くて微細で、刹那に生じては、また消滅する名色法に専注する能力を、獲得する事ができる。

上記の、こういうことから、あなたは定の力を借りて、無為涅槃を証悟する事が、できるのである。

我々は、四種類の名の密集を看破し、三種類の色の密集を看破し、名色法と五蘊法を運用して、何度も重複して、過去世、現在世と未来世の名色を観照しなければならない。

次に、その後において、涅槃を証悟するまで、最も微細な名色を(+一つの)単位・レベルとする無常・苦・無我の三相を、照見しなければならない。

安定的な定に基づいた時に初めて、あなたは名色の密集を看破し、それらを如実に観照することができるのである。

(3-37につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>