Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-63

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

煩悩と智慧は、心に命令して、身体にしてもらいたいと思っている事柄を、身体に要求させる事ができる。

煩悩が「我々は散歩に行こう」と言う時、楽しみを探しに行く、という訳である。

智慧は、座る姿勢が痛い時、色身に命令して「姿勢を変換しよう、歩いて苦を治そう」と命令するが、この時、智慧が正しく運用されているのだ、と言えるーーというのも、苦の切迫により、色身の姿勢を変えさせるが故に。

一番目の煩悩ーー粗いもの;

この種のものは、戒律で降伏できる煩悩である。例えば殺、盗など。戒律は、この種の煩悩を取り除く事ができる。

二番目の煩悩ーー障礙(蓋):

これは、誰か恨んでいる人を思い出したり、妄想したり、嫌悪したり、または他人に四念処の修行を教えたいなどと思う事。定は、この種の煩悩を降伏する事ができる。

もし、蓋が余りに強い時、それは行動へと変化するーー行動は、粗い煩悩であり、潜在的な煩悩惑もまた、妄想に転換するーー蓋。

心の煩悩(蓋)には五種類ある:

1)過去又は未来の欲楽について、考える(貪欲)。

2)過去又は未来の事柄について、怒ったり、イライラする(瞋恚蓋)。

3)心がどこか別の処へ出て行くーー妄想(慌てたり、憂慮する等)(掉挙蓋)。

4)修行の時に、眠くなる。懈怠または憂慮(昏沈蓋)。

5)疑:仏への疑い、法への疑い、僧(=サンガ)への疑いーーこれは苦を滅する事の出来る正しい方法ではない、と疑うなど等(疑蓋)。

(1-64につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」1-62

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

1-8 不善根:悪行の根源(無明煩悩)

三個の不善根がある:

貪、瞋(=怒り)、痴(=無知)。

愛(好き)は、一種の貪であり、憎(好きでない)は、一種の瞋、怒りである。

愛と憎は、同時に発生する事はない。

貪、瞋、痴は、通常、煩悩と呼ばれるが、しかし、実際は、不善根であると言える。

これらの不善根には、10種類の煩悩があるーー貪には三種類、瞋には三種類、痴には四種類である。

各グループの不善根の最初の煩悩は、不善根自身であるーー故に、貪、瞋、痴もまた、煩悩である。

三種類の煩悩がある:

一番目は、粗い煩悩で:身業、口業。

二番目は、心の煩悩(蓋):妄想など。

三番目は、潜在的な煩悩。

(+それは)覚受の中に潜在する煩悩で、例えば「あなた」が座っている時、「あなた」は「あなた」が座っているのだという感覚を持て座っているーー(+座っているのは)色身ではなく(+「自分だ」と思ってしまう)、これが潜在的な煩悩である。

実相般若の作用は、煩悩を取り除く事であるが、煩悩がどこから生起したものであるかは、問わない。

煩悩の友達は、快楽(=楽しさ、楽しみ)であり、その敵は苦である。

快楽は智慧をして、苦の事実を忘れさせる。

煩悩は盗賊の様で、彼(=煩悩)を捉まえるためには、必ず、彼の巣穴を知らなければならない。そして、また、あなたは、彼がどのような顔をしているかを知らなければならない(もし、あなたが彼の特徴も知らず、彼の顔も知らなければ、あなたはどのようにして、煩悩を取り除くというのだろうか?)

そして、あなたは、彼がいつ家にいるのかを知る必要もある。

煩悩には六つの巣穴がある:目、耳、鼻、舌、身体、意である。

(1-63につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-61

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

d)Yonisomanasikara  または「如理作意(yoniso)」の意味はすなわち、「個人の注意力を、ある事柄に集中させ、正しい理解をもって、それの因を知る事。」である。

これもまた、ある事柄の実相である。

(1-6-1節の実相に関する詳細な論文を参照の事。)

e)Sikkhati(察知力)。

我々に、<今・ここ>から離れていないかどうかを教えてくれる。

論文:

a)精進とは、煩悩(貪と瞋)を断じ除こうとする気力・根気の事であり、正念正知が(+心を)<今・ここ>に戻るように、支援する。

b)、c)正念は、座っている姿を知っている事。

正知は、この座っている姿勢は、座っている所のの色身である事を、認識している事。

実際には、精進、正念と正知は、<今・ここ>において、それを保持する事によって、色身を観照するものである。

我々は、上記の事を、理解しなければならない。

というのも、多くの修行者は、「彼らが」修行していると思っているが、実際は、三心または明覚が修行しているのに過ぎないのである。

正念と正知は、貪と瞋を取り除くーー実相般若を引発して、無明(痴)を破り除くのである。

如理作意、正念と正知は、思慧であり、正念正知が程よく組み合さって、効力を発揮した時、それは実相般若(修慧)に、転換される。

しかし、如理作意は、依然として思慧に属するものである。

正念正知が、実相般若に転換する時、我々は、正念正知でさえも、「私」ではない事を発見するであろう。

正念正知は、一種の心の状態であるが、それらはまた、無常・苦・無我でもある。

d)「如理作意」は、明覚(三心)を助けて、正しい運用をし、かつ、煩悩(貪と瞋ーー好悪の思い)の生起を防ぐ<法>である。

「如理作意」は、姿勢を変えるのは、苦を治したいからである事を知っており、如理作意は、好き、嫌いの(+思いの)増長を防止する事ができる。

同様に、如理作意と明覚は、座っている色身を認識し、その後に、痛みを感じる時、痛みに対して嫌悪しない。というのも、座っている色身が苦であって、あなたが苦なのでは、ないのだから。

座っている色身から、他の姿勢に転換する時、如理作意は、あなたに、姿勢の転換は、苦を治する為の行為に過ぎない事を教えてくれるのであって、このようであれば(=このことを理解すれば)、新しい姿勢に対する愛着を、防止する事ができる。

如理作意は思慧である;

如理作意は正念正知を導くが、それは、如理作意が、一群の人々を連れて稲田に行き、一たび彼らがそこに到着したとすると、正念は、稲を掴む事に相当し、正知は、稲を刈る鎌という事になる。

座っている時、如理作意は三心を導き、三心は、これは座っている色身である事を知り、如理作意は、導きの役目を果たす。

如理作意は、聞慧より来るが、最初に、座っている姿というのは、座っている色身である事を知るのもまた、如理作意であり、その後に、三心が、座っている姿は、座っている色身である事を知るのである。

我々は、朝に何事かをし始めてから、夜眠るまで、常に、如理作意を用いなければならない。

そうでなければ、正念正知は、正しく運用できないであろう。

最初、あなたは、聞慧によって、座っているは、座っている色身である事を知るが、この時の聞慧は、すなわち、如理作意である。

如理作意は、正念正知が正しく運用されるよう、支援することが出来る。

e)察知力は、我々をして、正念が強すぎて、正知が足りていない状態ではないかどうかに気づかせてくれるが、正念正知は、バランスが取れていなくては、<今・ここ>は、保持できないのである。

(1-62につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」1-60

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-7 精進ー正念ー正知、如理作意と観察力

定義:

a)Atapi の意味はすなわち、「精進」。

b)Sati の意味はすなわち、「正念」。

二種類の正念がある(すべての正念は、善法であるが、日常生活における「注意力の集中」と混同してはならない。これは、想の一種である。)

1)一般的な、または世間的の正念は、覚照力(明覚)を持って、何かの善行を行う事ーー例えば、托鉢の僧侶に食べ物を供養するなどなど。

2)四念処の修法の中の正念は、<今・ここ>において、観照する所の所縁に念住(=念を留める)ものであり、(+その所縁とは)心または身である。

c)Sampajanna の意味はすなわち「はっきりと知っている事」。

それは、いつも正念と共にある。

例えば、座っている姿を知っているのは、正念であり、これは座っている色身である、という事を知っているのは、正知である。

正念と正知が組み合わさると「覚照力」と呼ばれる。

正念正知は、経典の中では「殊勝な救済(+力のある)功徳」と描写されているが、それは正見の成就と、八聖道の体験・証悟に対して、用いられる表現である。

上述の a、b、c の三点は、明覚または「三心」と呼ばれる。

正念と正知を増進する事のできる四つの功徳とは、以下の通り:

1)適切な地域または環境に住む(仏法のある国に生まれる等)。

2)善知識に親しむ(善知識とは、vipassana 修法を了解・理解する人)。

3)己の方向性を設定する(苦を滅する事に関して、堅固で勇猛な心を持つ)。

4)以前(前世)において、功徳を積んでいる事。

(1-61につづく)

   <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-59

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

問:<今・ここ>を観照する三心と、<今・ここ>を把握する三心は、同じものですか?

答:双方共<今・ここ>という呼び名ですが、しかし、<今・ここ>を観照する三心(思慧)と、<今・ここ>を把握する三心(修慧)は、異なるものです。

修行者は、<今・ここ>を把握する為の修習しますが、それは、読書をするには、先に文字を学ぶのと同じです。

思慧は、ABCを学ぶようであり、修慧は(+その次の行為として)本を読むようなものです。

問:修行者は、<今・ここ>を把握する機会をどのように増進させますか?

答:もし、修行者に覚照力(rusuthua)(訳者注:rusuthuaはタイ語である。rusuは感覚、thuaは身体で、故にrusuthuaは、身体感覚と訳すことができる)があれば、彼は彼の周囲にある音や声を余り多く聞かなくて済むでしょうーーまたは聞こえても、強烈には聞こえないでしょう。

座っている色身を覚照する<今・ここ>は、空過(=虚しく、ないもののように過ぎ去る)または、多くの音声を、減少させるでしょう。

このように、<今・ここ>を把握する機会を増進したいのであれば、修行者は、覚照力を高めなければなりません。

問:ある種の姿勢の色身を見たい時、特殊な姿勢を採用する必要がありますか?

答:修行者は、座っている時、座っている色身を見たいが為に座っている、という事があってはなりません。または、歩くのは、歩く色身を見たいが為、という事であってはなりません。

すべての姿勢は、その一つ前の姿勢の苦を対応・退治する為にあります。

そして、座っている色身または歩いている色身が顕現する時、それは自然に見えてくるものなのです。

問:修行者は、<今・ここ>の自然を保持していれば、戒・定・慧を具足している事になりますか?それはなぜですか?

答:修行者は、実相般若によって、座っている色身を照見する時、「粗い煩悩」(戒律で対応する事の出来る煩悩)は降伏されますが、これは<今・ここ>に具足する戒です;

心の煩悩(五蓋)が、一時的にすべて消し去っている場合、これは<今・ここ>において、定が具足している事を、証明しているのです;

最後に、潜伏している煩悩(漏)もまた、一時的に消え去っている時、これは<今・ここ>の慧が証明されているのです。

というのも、実相般若は正見ーー「あなた」が座っているのではないーーを引発する事ができるからです。

(1-60につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~仏に会っては

心が清らかなでなければ、超能力(神通力)を擁する事はできない。

しかし、超能力を擁するからと言って、その人の心が清いとは限らない。

心が清らかでなければ、禅定に入る事はできない。

しかし、禅定に入れるからと言って、その人の心が清いとは限らない。

禅定から出て来て、争いを起す人々、その実例は数えきれない。

瞑想のテクニックが優れ、アビダンマの説明がいかに優れていても、それだけでは、よき指導者、よき善知識、聖者であるかどうかは分からない。

一人ひとりが、己を振り返り、己を島とし、法を島として、仏に会っては仏を殺さねばならない。

 

「身念処」1-58(50/203)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<今・ここ>を保持する為には、正念正知でもって身・心を観照しなければならない;

心に煩悩が無い時にのみ、(図1-3)にある所の、前三個(=色法、心所、心王)の所縁を、見ることができる。

身・心を所縁とする修行を、第12階智(随順智)に至るまで、不断に、続けなければならないが、その後においては、この所縁を捨棄し、これ以降は、涅槃が道心と果心の所縁となる(+ような修行を続ける)。

このようにして初めて、聖者または、出世間の階位を得る事が出来る。

<今・ここ>とは、身体または心を照見しているのであって、その所縁は、善である事も、悪である事も、または無記である事もあり得るーーしかし、それは四念処の所縁の内の一つでなければならない。

心に煩悩があるが故に、vipassana(注1) の修行をしなければならない訳であるが、また、煩悩のある所には、必ず、vipassana を運用するか、修習するかして、それを破り、除かねばならない。

例えば、耳が音を聞いて、煩悩が「私が聞いている」と認める時、vipassana があれば、我々は「心が聞いてる」という事に覚醒する事ができ、その時、煩悩は消滅する。

(注1:阿羅漢はすでに煩悩がないので、vipassana の修行をする必要がない。)

(1-59につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>