Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-57

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

出世間法の範囲においては、涅槃が所縁となる。道心(道識)と果心(結果)は、涅槃をもって所縁となしており、煩悩を断じ除く事ができるのは、道心である。

世間の範囲における正念正知は、実相般若であり;

出世間の範囲における正念正知は、道心になる。(道心は、字面上は、「道識」の意味であるが、実際的に、内容的には、道果または道智の意味を示しているーー道心は、第14階智である。)

涅槃は出世間法であり、五蘊の範囲には属さない。

二種類のpaccupan(paccupanとは、「現在」の意味である)がある。

1)現在法(Paccuoanadhamma)。

身・心の生・滅は、非常に迅速であるが、しかし、煩悩に覆われているために、我々は(身・心の生・滅を)見る事ができず、ただ座っている色身、立っている色身など等が、見えるだけである。

我々は「私が座っている」「私が立っている」「私は非常に暑い」など等と妄執する。

我々が察知するかどうかはともかく、現在法は常に存在していて、故に現在法(+と言うの)であるーー(以下12文字、意味不明)。

2)<今・ここ>(Paccupanarom)。

身・心の顕現、また、我々の貪欲と相応しない、特定のある時間ーー「座っている色身」「立っている色身」など等、我々は、現在法を使って修行する時、(+修行の内容は)<今・ここ>に発展する。

三心が一つに組み合さると、「私は座っている」の妄執から、「座っている所の色身」に変るーーこれが<今・ここ>である。

(1-58につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

「身念処」1-56

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

図1-3 四種類の実相(実相の、更に詳しい細目は図2-2参照の事)。

(原文では、★~★は、表になっていますが、hatenaでは表を作成できませんので、箇条書きとします。

★四種類の実相

1、色法(無知で無覚知)。

2、心所。

3、心王(識)。

4、涅槃(心法)(出世間)。

2の心所と3の心王は、合わせて心法と言う。心法は、(心)(知覚)でもある。

色法は、またa)五蘊の内の、色である。

2の心所は、b)受。c)想。d)行・・・に分けることができる。

3の心王は、e)識である。

a~eは、合わせて五蘊である。★

注:(図-3)

a)すべての実相の四つの法はみな、現在法である。

以下に述べるような現在法は、自然な真実な状態であるーーしかし、我々は、長い間それを、体験する事がなかった。

b)前三者の色法と心法(注~三者とは、色法、心所、心王の事)は、みな世間法であり、色身は、修行の観点から言えば、一個の所縁に過ぎないーー色身は知覚がないものである。

心もまた一個の所縁である:しかし、心はまた、心を知ることが出来る(心が見ているとか、心が聞いているなど)。これは世間の範囲でありーーいまだ生死の輪廻の中にあるものである。

(1-57につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

「身念処」1-55

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

実相とは、我々が(+上述した所の)座っている色身である。

座っている色身は、無知であり、無自覚である。そして、心が所縁(座っている色身)を認識するが、心もまた実相である。

世間には二種類の実相しかない:

すなわち、一種類は無知無自覚なもので、もう一種類は、霊々覚々のものである。

<今・ここの修慧>を捕捉するのが難しいのは、それが我々にいまだ煩悩が存在しているからであるが、(+修行に成功したいのであれば)不断に練習(<今・ここ>を保持する事)しなければならない。

(+修行者が)<今・ここの修慧>を掌握しなければならないのは、本を読む前に、先に文字を学び、文字を覚えてから、単語を読めるようになるのと同じである。

座っている姿勢から、立つ姿勢に変わる時にも、<今・ここ>を保持しなければならない。でなければ、煩悩は機に乗じて素早く入り込むからである。もし、不断に<今・ここ>を保持する事ができるならば、煩悩から遠く離れる事ができ、その事によって、修慧を引発し、無明を破り除く事ができる。

問:修行者は、(+己が)<今・ここ>を保持している事をどのようにして、知りますか?

答:修行者は持続して、正念正知を保持しなければなりません。もし、正念正知を具足しているならば、<今・ここ>を保持している事になります。

反対の表現もできます:もし、<今・ここ>を保持するならば、その時、正念正知もまた具足していなければなりません。

修行者は持続的に<今・ここ>を保持しなければなりません。このようであれば、真相を見る事が出来ますが、この真相とは、すなわち苦と身・心です。

(正念正知は、実際には、<今・ここ>において、身・心を観照する事と同時に実践されるべきものである。このようにすれば、「世間」五蘊への貪欲と瞋恚を断じ除く事ができる。)

この種の修行は、修行者をして実相ーー自然なる真実の状態ーーを見る事へと導く事ができる。そして、その事によって、身・心を「我」と見做す邪見を破り除く事ができる。

1-6-1 実相

実相とは、宇宙における一つひとつの事柄は、自然なる真実の状態である(+ことを指すが、それはすなわち)真相である;

真相とは、非男であり、非女であり、非個人であり、または非霊魂である、ということである。

例えば、座っている色身は、座っている所の姿の実相である。(自然なる真実の状態を理解・了解したならば、実際は、それは座っている色身ではなく、実相に過ぎない事が分かるのである。)

宇宙とは、ある種の仏法が述べる所の「実体の空」ではなく、それは自我の空または霊魂の空なのである。

実相は、色と心の二法によって構成されているーーそして、心法は、三つ部分に分けることができあるが、それは以下の通りである:

(1-56につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

★マハーカルナー禅師への質問状(最終版)11月20日加筆あり←11月21日禅師にメールにて通知しました。

過日、パオ森林寺院出身のマハーカルナー禅師にパーラージカ(四大戒律違反/淫、盗、妄、殺)の疑いが出て、彼を支えていた<マハーカルナー法友会>散、WEBが閉鎖されました(11月2日付)。サンガ出版は、禅師に関する各種の活動告知をすべて、抹消しています(11月3日付)

禅師は、ご自身の潔白の証明はないまま、即刻、新しい組織を立ち上げました(11月3日)。

さて、大いに困惑するのは禅師を信奉し、彼の法話・瞑想会に出席していた方々だと思われます。

私はパオ森林僧院の現任出家尼僧 Sayalay として、禅師に以下の件を問いたいと思います。

(1)禅師は、日本に帰国後「パオ僧院日本道場設立」という旗を掲げましたが、それが(『別冊サンガジャパン』に記載されている如くの)(注1)事実ある事の証明。

台湾中部に設立されたパオ台湾分院は、パオ・セヤドー自身が来台して、ご自身で土地を探しまわり、僧院建設場所を指定し、建設されたものと聞きました(注2)

パオ台湾分院の住職は、パオ・セヤドーの指名によって、マンダレー分院から派遣された緬甸人長老が担当され、台湾人比丘は副住職担当です(2015年当時)。

パオ僧院日本道場設立に関して、なぜ、パオ・セヤドーの支援が一つもないのでしょうか?

(2)パオ僧院日本道場設立を取り下げた真意。

パオ僧院日本道場設立を取り下げる時(2016年11月、wikipedia の記載による)、パオ・セヤドーと相談され、許諾を得ましたか

パオ・セヤドーの許諾を受ける為に(緬甸に)渡航した場合、その証拠として、パスポートの当該部分(2014年以降、2016年11月以前の出入国スタンプ)を傳修院HP上で、お示し頂けますか?その時、禅師がパオ・セヤドーと会談されたのは、モーラミャインの本山ですか?それともその他の分院ですか?その僧院名と所在地、日時をお知らせ下さい。

もし、出入国スタンプをお示し頂けないのであれば、(これより先、パオ・セヤドーにお会いされて)「パオ僧院日本道場設立取り下げの経緯説明書・緬甸語/英語/日本語併記(セヤドーの自筆署名入り)」一文を、来年6月30日までに、貴院HP上にて、公開して頂けませんでしょうか?

パオ僧院日本道場の設立を聞いて駆けつけ、支援されてきた日本の方々に、日本道場設立取り下げに関してのパオ・セヤドーのお言葉を、どのような形で伝えられましたか?

 (3)スリランカ、ブラジル等、これまで修行して来られた寺院・僧院の名称。時系列による修行略歴(比丘名の変遷があれば、それも含む。その時々の戒師のお名前)

 (4)「テーラワーダの比丘は、お金に触ってはいけない」という戒律を、日本でどうやって守っていますか? 

尚、大勢の修行者を混乱に陥れている<パーラージカ(疑惑)>については、告発者側が証拠、証言を集め公開し、禅師がそれに肯首か、または釈明・反論する形で解決するのを、お待ちしています。

(注1)『別冊サンガジャパン』2014年8月号<マハーカルナー禅師、パオ・セヤドーより日本道場設立の命を受けて、2013年5月、20年ぶりに帰国・・・>記事参照の事。

(注2)タイのアチャン・マハーブーワ膝下で出家のメーチ・ミンガラ(台湾人)の証言。

 (以上)

 上記質問状に、禅師にお答え頂ける場合、傳修院HP上で公開にてお願いします。私の二つの質問状上記四項目及び、<パオ僧院日本道場の説明責任>2016年12月20日)に対して、禅師が上記HP上でお答え下されば、これまでの色々な噂(水源禅師関連等)も同時に打ち消す事ができますから、禅師にとっても一石二鳥と思われます。

今回の事件は、すでにパオ森林寺院にも伝わっているでしょうミャンマーの方々にこれ以上ご迷惑をお掛けしない為にも、禅師の真摯な回答をお願い致します。

(11月20日下線部分加筆)

Pañña-adhika Sayalay略歴:

1949年神戸にて出生。

1980年代、タイ・カンチャナブリ、スナンタ・ワラナム(スナンタ森林寺院)にて、アチャン・カウェサコ師の下、聞法と安般念修行開始(それ以前は、ひたすら独学)。

1999年、パオ・セヤドー著『智慧之光』(中国語版)を日本語に翻訳、『智慧の光』として、WEBにて公開。<菩提樹文庫>にて掲載中。

同年、緬甸モーラミャインにあるパオ森林寺院本山において、パオ瞑想修行開始。

同時に、パオ・セヤドーの膝下にて出家。パオ・セヤドーより Pañña-adhika(智慧鋭き者)の法名を頂く。

2001年、還俗して日本帰国。主婦業に戻る。

2014年、パオ森林寺院ヤンゴン分院にて、クムダ・セヤドーの膝下、再度の出家。

2015年初、ヤンゴンより帰国後、Pañña-adhika Sayalay(大乗の比丘尼相当)として、九州に庵を結び隠居。

2016年より、『智慧の光』(パオ・セヤドー著)読書会講師。

         <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-121

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

まさに、この男性が、二股の枝で、その蛇を捉まえようとする時、心の中で思う:

「私はどのようにすれば、彼を害さないで、また、私が彼に、咬まれないという状況の下で、彼を取り除く事ができるか?」

この時、彼はただ一つの、蛇を取り除く方法を見つけ出し、蛇を捉まえる事に関して、中捨を感じる。

同様に、比丘は、三相を探し求める事を通して、燃えている最中の三有を見たならば、彼は、諸々の行蘊に執着する事に、中捨を感じる。

この捨は、「行捨」と言う。

このように、「観捨」を打ち立てたならば、「行捨」もまた、すでに打ち立てられている。

しかしながら、それは、観察(+したもの)に対して、中捨を感じるか、または執着に対して、中捨を感じるかによって、二種類に分類することができる。

精進捨と受捨の二種類は異なっており、また、その他の捨とも、異なる。

これらの捨の中で、ここで述べているのは、禅捨である。

その特徴は中捨であり;

作用は、関心を寄せない事であり;

現起(=現象)は、興味を感じない事であり;

近因は、喜の消滅である。

(5-122につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~黄梅が熟した

中国は、魏や唐の時代、禅宗が勃興しました。

多くの人が、禅寺の門を叩き、禅の修行をしました。

それまでの中国仏教は、理論を勉強し(主に華厳経)、その会得した知識を競うものであったのですが、(達磨禅師のご努力により)仏法とは、修行して悟りを得るものだという認識に変化したのです。

素質よろしく、先に悟った者は、禅寺を開き、住職になりました。

弟子が続々とやってきましたが、弟子が優れていて、己が教えきれないと思ったなら、他のお寺に移って行くのを奨励しました。

決して、弟子を抱え込み、その数を競うような事はありませんでした。

お寺で修行しても悟れなかった某僧侶は、諦めて実家のある黄梅山に帰り、そこで悟りを得ました(悟りたい、悟りたいと意気込めば意気込む程、悟れないというバラドクス)。

そこで、元の師匠は「黄梅が熟した。あっぱれである」と褒めています。

師匠は弟子を囲い込むのをやめて、弟子は自立を目指す。これが健全な師弟関係です。

      <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~傲慢な仏教徒

ゴータマ仏陀の教えた仏法は、大変な価値を持っていると思います。

一たび四聖諦を知り(本当にその本質を知るには、修行しなければなりませんが)、八聖道を実践していくと、なんだか未来が明るくなったような気がします。

しかし、だからと言って、他の宗教がダメという事はない、と思います。

私はジャイナ教が好きです。

ジャイナ教は、仏教ととてもよく似ていますが、異なる部分は、業の考え方と、<解脱>を説明するのに、<魂>という言葉を使う所です。

そして、ジャイナ教創始者マハーヴィローの遺言は「宗教に絶対はない。自分の宗教が一番だと言ってはならない」というものです。

今、「仏教が一番だ」と言う人々はしかし、仏陀無きあと、宗派は千々に乱れ、定説はあってなきように、分裂している事は認めなければならないでしょう。

ジャイナ教は、2600年経った今も、分裂することなく(裸形派と白衣派という二つの流れがありますが、それは着衣の問題であって、教理で分裂している訳ではない)、今なお、インド人の信頼を勝ち得ています。

それは彼らが戒律を守る人々で、偸盗しない為に、彼らに宝石、財産を預けても、決してトラブルになる事がないからです(故に、ジャイナ教徒は宝石商が多い。)

仏教徒は戒律を守っているでしょうか?

中国と台湾の大乗仏教徒、特に僧侶(中国の、政治的雇われ僧侶は別として)は、しっかり戒律を守っているようです。

彼らは、妻帯しない(異性にタッチしない)、お酒を飲まない、菜食(これは中国系仏教だけの習慣)、盗まないなどおおむね、守れているようです(夕方、薬石と称して軽い食事をとっている僧侶はいます。寒い中国北方では、夕方何か食べなければ、寒すぎて、座禅・瞑想が出来なかったのかも知れません)。

日本の大乗はどうでしょうか?

僧侶が妻帯し、お酒を飲み、三食たしなみ、お墓や戒名で営業し・・・

では、日本のテーラワーダはどうでしょうか?

答えは、皆様の胸の中にあると思います。

    <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>