<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
まさに、この男性が、二股の枝で、その蛇を捉まえようとする時、心の中で思う:
「私はどのようにすれば、彼を害さないで、また、私が彼に、咬まれないという状況の下で、彼を取り除く事ができるか?」
この時、彼はただ一つの、蛇を取り除く方法を見つけ出し、蛇を捉まえる事に関して、中捨を感じる。
同様に、比丘は、三相を探し求める事を通して、燃えている最中の三有を見たならば、彼は、諸々の行蘊に執着する事に、中捨を感じる。
この捨は、「行捨」と言う。
このように、「観捨」を打ち立てたならば、「行捨」もまた、すでに打ち立てられている。
しかしながら、それは、観察(+したもの)に対して、中捨を感じるか、または執着に対して、中捨を感じるかによって、二種類に分類することができる。
精進捨と受捨の二種類は異なっており、また、その他の捨とも、異なる。
これらの捨の中で、ここで述べているのは、禅捨である。
その特徴は中捨であり;
作用は、関心を寄せない事であり;
現起(=現象)は、興味を感じない事であり;
近因は、喜の消滅である。
(5-122につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>