<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
実相とは、我々が(+上述した所の)座っている色身である。
座っている色身は、無知であり、無自覚である。そして、心が所縁(座っている色身)を認識するが、心もまた実相である。
世間には二種類の実相しかない:
すなわち、一種類は無知無自覚なもので、もう一種類は、霊々覚々のものである。
<今・ここの修慧>を捕捉するのが難しいのは、それが我々にいまだ煩悩が存在しているからであるが、(+修行に成功したいのであれば)不断に練習(<今・ここ>を保持する事)しなければならない。
(+修行者が)<今・ここの修慧>を掌握しなければならないのは、本を読む前に、先に文字を学び、文字を覚えてから、単語を読めるようになるのと同じである。
座っている姿勢から、立つ姿勢に変わる時にも、<今・ここ>を保持しなければならない。でなければ、煩悩は機に乗じて素早く入り込むからである。もし、不断に<今・ここ>を保持する事ができるならば、煩悩から遠く離れる事ができ、その事によって、修慧を引発し、無明を破り除く事ができる。
問:修行者は、(+己が)<今・ここ>を保持している事をどのようにして、知りますか?
答:修行者は持続して、正念正知を保持しなければなりません。もし、正念正知を具足しているならば、<今・ここ>を保持している事になります。
反対の表現もできます:もし、<今・ここ>を保持するならば、その時、正念正知もまた具足していなければなりません。
修行者は持続的に<今・ここ>を保持しなければなりません。このようであれば、真相を見る事が出来ますが、この真相とは、すなわち苦と身・心です。
(正念正知は、実際には、<今・ここ>において、身・心を観照する事と同時に実践されるべきものである。このようにすれば、「世間」五蘊への貪欲と瞋恚を断じ除く事ができる。)
この種の修行は、修行者をして実相ーー自然なる真実の状態ーーを見る事へと導く事ができる。そして、その事によって、身・心を「我」と見做す邪見を破り除く事ができる。
1-6-1 実相
実相とは、宇宙における一つひとつの事柄は、自然なる真実の状態である(+ことを指すが、それはすなわち)真相である;
真相とは、非男であり、非女であり、非個人であり、または非霊魂である、ということである。
例えば、座っている色身は、座っている所の姿の実相である。(自然なる真実の状態を理解・了解したならば、実際は、それは座っている色身ではなく、実相に過ぎない事が分かるのである。)
宇宙とは、ある種の仏法が述べる所の「実体の空」ではなく、それは自我の空または霊魂の空なのである。
実相は、色と心の二法によって構成されているーーそして、心法は、三つ部分に分けることができあるが、それは以下の通りである:
(1-56につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>