Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-81

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-12 12因縁(縁起)

12縁起は、一連に繋がった因果である。

それは12個の環によって、円形の鎖が形成されているものである。

またそれは、生死輪廻の因縁関係を説明しているものでもある。

12縁起とは、因と果の現象をコントロールする所の実相(自然的な真実の状態)であり、一つの環は、次の環を縁によって生起させるが、そのことによって、絶え間なく相続する所の、生死輪廻を造りだすのである。

12縁起は、因と果の組み合わせに過ぎず、因と果以外に、私とか、またはその他の外部的な力が、それ、すなわちーーこの世界または他の世界をーーをコントロールしている訳ではない。

人も、または外部の力も、このような現象を造りだす事はできない。

これを縁起の法といい、それは一種の因と縁の関係で、例えば、無明の縁によって行がある、などなどである(次頁の因縁の連鎖を参照の事)。

縁起法の研究は、この世間の人類にのみ限定される。12縁起の因と縁の鎖は、以下に示すとおりである:

(1-82につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

「身念処」1-80

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

修行においては、堅実を(+虚構と)見破らなければならないが、そのためには、身・心を観照しなければならない(身・心の識別のために、特殊なチャレンジをする必要は無い)。

修行者は「座っている色身を知っている心」と「立っている色身を知っている心」は、それぞれ異なっているものである事を、理解しなければならない;

その上、座っている色身と、立っている色身も異なっているのである。

故に、普通の方式で修行しなければならないが、それは、堅実(+という誤解)が生みだす邪見が看破されるまで、実践されなければならないのである。

同じく、無常をば、相続していると誤解して、(+対象に)執着する事を看破する事や、身体の姿勢を観照して、苦を看破する事と同じように、堅実もまた身・心を観照する事を通して、<それ>は<それ>であると、知る事なのである。

堅実(+という誤解)から生じる邪見を破り除く事は、第一番目の階智を、証得したのだと言える。

それは名色分別智(すなわち、見清浄ーー清浄なる知見と内観)であって、もし第一番目の階智を証得していないのであれば、その後に控えるその他の階智を、成就する事は出来ない。

修行とは、三法印を隠蔽する所の因縁法を看破する事であり、すべての三法印を証得しなければならない、という事ではない。ただ、三法印の内のその中の一つの相を証得するだけでよいのである。

例えば、あなたが、無常を隠蔽する所の真相を看破したならば、あなたは、苦と無我を証得したのだと言えるのである。

(1-81につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-79

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

修行者は「如理作意」でもって、身と心を分けなければならない。

このような(+視点を持って)初めて、(+身と心が)一つの個体には見えなくなる、という訳である。

もし、「如理作意」がないのであれば、我々は、どれが身体で、どれが心であるか、分からなくなる。

その上、一種毎の色身は、皆異なっているのである:

座っている色身と立っている色身は異なるし、立っている色身は、歩いている色身とは異なっているなど等。

六組のvipassana慧地(基礎、原理)は、身と心を分離させる為の観照としては、非常に効果が高いものである。

それらは:

1、五蘊

2、12処。

3、18界。

4、22根。

5、四聖諦。

6、12因縁(縁起)。

五蘊を例にして説明すると、我々は、身蘊が座っているのを知っている。そして、識蘊は(その他の三蘊ーー受、想、行を利用して)(注1)、身蘊が座っているのを知る。

このように実践する事によって、我々は、身と心を分離(識別)させる事ができるのである。

(注1)ここでいう受、想、行(通常言う所の蘊)の作用は、心所のようなもので、その後に識蘊として構成される。

(1-80につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~現在法

「身念処」の<1-78>を翻訳していましたら「現在法」という言葉に、出くわしました。

私がいままで、喉まで出かかっていて、どう言えばよいのか、よく分からなかった言葉です。

そうそう、これこれ「現在法」。

私達は、ゴータマ仏陀の教えを学ぶと、目が点になると言いますか、目から鱗といいますか、今まで常識だと思っていた事が、ひっくり返ってしまいます。

色聚(原子より小さい物質で、vipassanaをすると見えて

くる)で出来ている己の体は、刹那に生・滅していて、

実は自分なんていないんだよ。

う~~ん、素晴らしい、ゴータマ仏陀

で、今日から「自分はいない」「自分はいない」と、己に呪文を掛けながら生活する。

しかし、悲しいかな、今なお凡夫である私、実は「自分はいない」なんて、これぽっちも実感できていない(笑)。

生兵法は怪我の元。

凡夫が背伸びをして、聖者のまねをすると、火傷します。

凡夫は、自分の実感ーー現在法から、ゴータマ仏陀の教えた出世間法へと、修行を通して、意識を移行させていくべきですが、理論だけ覚えて、頭でっかちになって、背伸びをすると、大怪我をします。

我々は、<現在法>をスプリング・ボードにして、出世間するのですから、日々、ボードの点検は必要不可欠です(そして、出世間法というのは、あなたの想像を超えていますから、頭で想像しても、無駄なのです。)

自然法爾・・・現象世界は、決して逃げたり、無くなったりしません。

世界は、あなたの悟る日を待っていますから、まずは<現在法>の中で、誠実に生き、己をよく見つめ、焦らない事が大切です。

      <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」1-78

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

実相を体験・体得した後、厭離の心は生起する。その為、煩悩は弱くなり、気力、意志力は更に強くなる。

その後において、四念処智を成就して、五蘊に対する貪と瞋恚を断じ除くことができる。

3)堅実。身・心の堅実さは、実法であり、また現在法であるーー実相、それが事実ではあっても、我々をして、己は男であるとか、女であるとか、誤解を生じせしめ、また私は在るという邪見を生じせしめる。故に、我々は、身・心は常で楽であると、妄執する。堅実は、身・心の実相ーー無我を隠蔽する。

(1-79につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出  翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」  2‐5

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(注6)

1、律蔵ーー《経分別

(またの名を比丘分別または大分別と言う)》、

比丘尼分別》、《大品》、《小品》と《付随》

の五つの部分が含まれる。

2、《経蔵》ーー五部(ニカーヤ)が含まれる。

すなわち:《長部》、《中部》、《相応部》、《増支部

と《小部》である。

《小部》に15の部分があり、それはすなわち:

《小誦経》、《法句経》、《自説経》、《如是説》、

《経集》、《天宮事》、《餓鬼事》、《長老偈》、

《長老尼偈》、《本生経》、《義釈》、《無礙解道》、

《聖格言》、《仏種姓》と《所行蔵》である。

3、《アビダンマ蔵》ーー7部の論を含む。

すなわち:《法集論》、《分別論》、《界論》、

《人施設論》、《論事》、《双論》と《発趣論》である。

(2-6につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-4

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(《諸々の小聖典》の範囲の確定)

この中において、「私は将に、いくつかの諸々の小さい(聖典)の意味について」と(+私が)述べている事に関して、先に「諸々の小さい(聖典)」(の範囲)を確定した後、その意味を説明したいと思う。

「諸々の小さい(聖典)」とは《小部》の一部分を指す。

そして、《小部》は五部(nikāya)も一部分である。五部(nikāya)とは、

「長、中と相応、増支及び諸小、この五部は、法から言っても、義(=意味・内容)から言っても、奥深いものである。

その中で《梵網経》等の34経は《長部(Dīghanikāya)》とし、《根本法門経》等の152経を《中部(Majjhimanikāya)とする;

《渡瀑流経》などの7762経を《相応部(Saṃyuttanikāya)》とし;

《心遍取経》等の9557経は《増支部(Aṅguttaranikāya)》とする;

《小誦(経)》、《法句(経)》、《自説(経)》、

《如是語》、《経集》、《天宮事》、《餓鬼事》、

《長老偈》、《長老尼偈》、《本生(経)》、《義釈》、

《無礙解(道)》、《聖格言(Apadāna》、《仏種姓》、

《所行蔵》、(及び)《律蔵(Vinayapiṭaka)》、

《アビダンマ蔵(Abhidhammapiṭaka)》、

四部(ニカーヤ)を除く、その他の仏語は

《小部(Khuddakanikāya)》とする(注6)

(2-5につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>