Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」3-15

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

14、道智(智見清浄)

この智は、道心の中に生ずる。道心は、種姓智(第13階智)を助縁とし、第13階智と同様に、この智は、涅槃を所縁としている。しかし、この智は、完全に惑を断じており、また、心と所縁は、皆出世間である。

この智は、四つの道心の力によって、完全に惑を断ずるが、その過程において、(+修行者にとって)初めて生起する道心である。

この道心が生起する時、すなわち、入流果(ソータパナ)を証悟する。この道心は、わずか一刹那しか生起しないが、しかし、生命が、最も多くても、僅か、7回だけ生まれれば、輪廻を解脱する事が出来るようになる。

この智は、八聖道の中では正見に属する:四聖諦に対する正見である。

このレベルの階智は、雷雨の中の一瞬の稲妻のようである。というのも、それは非常に強く、非常に明るく、突然であるから。

道心が初めて生起する時、ソータパナ道と呼ばれる。更に高度な道果において、三度生起する。修行者は、初めて聖者となる。彼は、二度と四悪趣に生まれることはない。

この智の楽はーー出世間楽である。

合計四つの出世間智がある:

1、ソータパナ道(入流識に属する)。

2、サターガミ道(一来識に属する)。

3、アナーガミ道(不還識に属する)。

4、阿羅漢道(阿羅漢識に属する)。

(3-16につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」3-14

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

13、種姓智(行道智見清浄)

この智は、道智(第14階智)に向かう道刹那によって誘発される所の智慧であり、また、この智の、前の段階の、その他の階智と異なる所は、この智は、涅槃を所縁としている事(出世間)である。

しかし、心は、なお、世間に属する。

これ以降、二度と、身・心を所縁とする事はないが、しかし、この智は、なお出世間には、完全には到達していない。一つ前の階智の心と所縁は、みな世間に属する。

この階智においては、心の智慧は修行者をして、凡夫から聖人へと変化せしめる。これは、生死輪廻の中で、心が初めて、涅槃を所縁としたもので、涅槃を所縁としてはいるものの、しかし、この智慧では、完全に惑を断つことは、できない。

アチャン・ネンは、この智は、ちょうど何かの仕事を始めたばかりの人のようで、彼は自分の仕事に対して、完全には、習熟していないのである、と言うーーこれが、この智が、なぜ、惑を完全に断じきれないのか、という理由である。

(3-15につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」3-13

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12、随順智

この智は、一個の完全な智慧である為、修行者をして、四聖諦を体験・証悟せしめる事ができる。

この智は、前の段階のいくつかの階智によって誘発され、生起するもので、この階智における、勇猛な智慧は、前段階のいくつかの智より更に信心(=確信)が具足しており、更に精進するようになり、また、更に(+強固な)念住があり、慧による理解が更に進むーーというのも、修行者は、苦諦と集諦を体験・証悟したが為に。

37道品によると、この智は、すでに七菩提分(七覚支)のレベルに到達している。というのも、それは四聖諦を体験・証悟する助けになるが故に。

仏法の中には、三つのレベルの智慧がある:

第一と第二の階智:知遍知。

第三と第四の階智:審察遍知。

第五から第14階智:断遍知。

Vipassanaの作用は、第一階智から始まり、徐々に迷いを断じて、第12階智に至る。

しかし、この智は世間に属するーー世間智の作用に含まれる。

随順智においては、三法印を所縁として、前二つの聖諦(苦諦と集諦)を体験・証悟する。これより以降、二度と、身・心を所縁とする事はない。すなわち、最後の観智である。

随順智は、三法印のどれか一相を観ずる事によって道刹那(道識を主宰する心)が誘発される。(第11階智の最後の三段階を参照の事)この過程の全体は、わずか、三つの速行心という極めて短い時間内において生起して、完成する。

随順智の源は、行捨智(第11階智)であり、かつ、種姓智(第13階智)が生じるための資助(=元手)と助縁になる。

随順智(第12階智)から種姓智(第13階智)に発展する過程は以下の通り:

ちょうど、大木の枝に縄をかけて、その縄を掴んで、川を飛び越えるようなもの。縄を掴んでいるのは遍作(随順智の第一個目の速行心:準備心)で、遍作心は道心の為の準備をしている事になる。次の段階では、枝に掛けた縄を掴んだ人間は、川の真ん中まで移動している。これは近行(随順智の二番目の速行心)である。(+縄が更に振れて)人間が対岸に到着した時、この心は、種姓智と呼ぶ。この心は、涅槃を所縁としている。

随順智は、世間の範囲内の最後の智であるーー世間内の範囲とは、身・心を所縁としているという事である。

これより先、涅槃が心の所縁となる。

上に述べた方式(過程)において、世間心から出世間心に至るまでを、法決定(模範的次第、順序)と呼ぶ。

(3-14につづく)

      <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~「身念処」が終わったら

アチャン・ネン著『身念処』の翻訳が、佳境に入りました。16階智の説明が分かり易くて、非常に良い。

翻訳のし甲斐があります。

<付録/質疑応答篇>(P141~)は、内容が重複しているので、一部割愛するとして、後一週間程で完成でしようか。

これで、心置きなく台湾に出かけられます(『身念処』の翻訳完了後は、パオ・セヤドーの『顕正法蔵』に戻ります。)

まだ色々、よい仏教書が手元にありますので、随時翻訳していきます。元気でいられますように(それにしても寒い、寒すぎます・・・)。

 

       <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」3-12

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

11、行捨智

この智は、身・心(身・心の行)への冷淡さを誘発し、二度と再び、身・心に対する執着と貪恋を生じる事がないーー身・心は、長期に及んで、我々が「私」「私のもの」「私自身」として執着して来たモノである。

しかし、この種の冷淡さは、厭離の心理が含まれている。

この智は、一つ前の階智によって発展してきたもので、五蘊(行)の不堅実性をはっきりと、照見することができる;

非男、非女、非人間、非最高神など等ーーまた、生命は刻々消失していて、非常に早く死ぬかもしれないーーこの事から、身・心に関して、(+修行者は)楽趣を言う事ができなくなる。

智慧によって、身・心は空であり、非男、非女であると体験・体得した時、身・心に対して、興味を失う。

同様に、世界は空(カラッポ、実体が無い)であると感じる。

故に、捨心ーー身・心に対して愛憎のない念(+が生じるが)ーーしかし、これは厭離相応の捨である。

今、心は涅槃を証悟したいと思い、身・心の事はどうでもよくなり、三界の中に生まれたいとも、思わなくなる(三界は、第七階智の注を参照の事)。

この智は、世間の範囲内においての、最高の観智であり、この智は修行者の道心(道識)と果心(成果)を啓発することができ、かつ、修行者は、一人の聖者となる。

これは非常に鋭利な智慧であって、大部分の煩悩を断じ除くことができる。その為に、この智は、明確に三法印を見る事ができ、故に、涅槃を実証したい、という強烈な願いが生まれる。

第九階智(解脱の欲求)、第十階智(出口を探す)、第11階智(諸行の捨)は、皆、互いに相関し合っているーーしかし、第11階智の智慧が、他に比して、比較的強い。

三法印の、何か一つの相と相応する捨心は、皆、<解脱心>と呼ぶ事ができる。

もし、心が無常を観じて、涅槃解脱に向かうのであれば、これを<無相解脱門>と呼ぶ。

もし、心が苦を観じて、涅槃解脱へと向かうのであれば、これを<無願解脱門>と呼ぶ。

もし、心が無我を観じて、涅槃解脱へと向かうのであれば、これを<空解脱門>と呼ぶ。

(3-13につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」3-11

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hot> 

10、審察随観智

此れより前の、いくつかの観智において、畏怖が生じる事によって過患を知り、厭離が生じ、それによって、身・心から解脱して、脱出したいという欲が誘発された。

この智は、身・心の解脱を欲する結果、修行者は、解脱の道を見つけ出したいと切に思うようになるーーしかし、実際にはどのように実践していいのかを分からず、心中の三法印を体験・体得したいと思い、身・心から脱し、離れたいという一種強烈な感覚が生じる。

この種の、解脱したいという欲求は、第7、第8、第9の階智を源にして生起する。この三つの階智が一つになると、非常に明覚で、鋭利な般若の智慧と、煩悩を断じ除きたいという欲求を誘発し、何とかして解脱の道を探し求めたいと思うようになる:生死輪廻から脱し離れる事ができて、かつ未来へと伸びている道を。

この智においては、修行者は、前のいくつかの階智に比べて、更にしばしば三法印を見るようになる。というのも、身・心の無常・苦・無我が見れば、苦を滅したいと言う強烈な欲求が誘発されるが故に。

仏陀は、三法印だけが、人をして苦痛から出離させる、と言う。一人の修行者は、これまで一度も三法印を見たことがないのであれば、生死輪廻を脱する事はできない。涅槃へと至る唯一の道は、身・心を無常・苦・無我である、と見做す事である。)

(3-12につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「身念処」3-10

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8、厭離随観智

一つひとつの階智(+を昇る時、そ)の階智毎に、智慧はますます強くなる。

この智において、身・心(五蘊)に対する厭離の感覚が生じる。

この事は、先の階智において、身・心の禍を観察した結果であるが、しかし、この種の厭離は、瞋恚の心ではなくて、智慧である。

この種の状況は、如何なる「有」の中にも、たとえ最高の地位ーー国王、または億万の富豪であっても、二度と生まれたくないと(+いう気持ちを)誘発する。

これはまさに、二つの行く道があるような状況である:

一つの暗い道は、引き続き生死輪廻する道で、もうひとつ別の道は、明るい道で、安全で守れらている所の涅槃である。

身・心に対する厭離から、この暗い道には楽趣を見いだせず、涅槃へ通じる明るい道は、非常に人を引き付ける。

この種の、貪愛を放棄したが故に得られる智慧を、厭離随観智と言う。

もし、完全に貪愛を放棄したならば、離染(無執着)と言い、これ(+があれば)解放または解脱へと導かれ、次には、解脱から涅槃へと至る。

この智を成就すると、少なくとも三法印の中の一相を体験・証悟する事ができる:すなわち、無常・苦・無我である。

もし、厭離の感覚に瞋恚心が含まれている場合は、厭離随観智ではなくなる。

そして、瞋恚の心が含まれる厭離においては、三法印を見ることは、できない。

Vipassana によって生死輪廻から脱し、離れたいと考える人で、もし、この智を成就する事ができたならば、すべての煩悩、以前にあった非常に強い煩悩であってさえも、緩くなり、弱くなる。

この智から(+以降)は、道心(注1)によって、涅槃への道へと、導かれる。

この智が厭離する感受は法句経の偈頌に纏める事ができる;

諸行皆無常(諸行は無常)、

智者了知此(智者はこれを知る)、

直道厭離苦(苦を厭離する道)、

此解脱真道(これ、解脱の真の道)。

9、欲解脱智

第七階智からは、身・心の危険と禍を体験・体得する。

第八階智では、厭離が生起する。

今、修行者は身・心に対して、解脱したいという楽欲が充満している:

牢獄に入れられている人が、一分一秒も、そこから逃れたいと、思わない日が無いかの如くに。

第6、7、8階智は相互関係がある。

一つひとつの階智の感受は、益々強くなり、怖畏現起智は、過患随観智を誘発し、次に、過患随観智によって厭離随観智が誘発されるーーその後に欲解脱智が生じる。

その後に、この智(第九)によって、涅槃へと至る:

欲解脱は、(+修行者をして)涅槃に至るために、更に修行に励みたいと思わせるからである。

(注1)涅槃へと導く道心(または道識)とは:厭離、離染と彼分涅槃(ネガティブ・邪見を、ポジィティブ・正見に置き換える方式によって、煩悩を徐々に減らす事)である。。

彼分涅槃の例は、第一階智において、我見が正見にとってかわられる事等。

(3-11につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>