Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

七番目の速行心果報の状態

最も力の強い七番目の速行心によって生じる果報は、もう一つの一期の生命を生起させるに十分足りる(+力をもっていて、)・・・天人に生まれることも、人に生まれることもできる。

一番目の速行心に、もし、果報が現起(現象)するとしても、現在の生において、多少とも、更に幸福になるだけであり、もう一つ別の、一期の生命を打ち立てることはできない・・・(+すなわち)結生心を、生起させる事はできないのである。

七番目の速行心は、今の生を幸福にするだけでなく、もう一つの、一期の生命の現起(=現象が生起する事)を支える事ができる。

以上は、善業の速行心に関する、説明である。

不善業の速行心もまた、同様である。

一番目の速行心が、もし、大阿羅漢を誹謗するものであれば、それは即刻、果報を生じせしめる。

たとえば、ある時、シャーリプトラが頭を剃ったばかりの時に、難達という名の夜叉が、シャーリプトラのツルツルの頭を何度か叩いた所、難達夜叉は、即刻死亡し、無間地獄に落ちたのである。彼を即刻死亡せしめたのは、一番目の速行心の作用であり、彼を無間地獄に落としたのは、第七番目の速行心の作用である。

こうしたことから、善であっても、不善であったも、第七番目の速行心は、最も力が強く、それはもう一つ別の、一期の生命を現起(現象)させることができる(+事が分かる)。

もし、第七番目の速行心が、「次の生」で果報を生じない場合、第七番目の速行心の業は、無効業となる。

我々には多くの無効業があり、緬甸語で言うならば、<惜しい業>という事になる。

衆生は、多くの業を造(ナ)すが、しかし、すべての業が、「次の生」において、同時に果報を生起せしめる事はない。

多くの業の中において、第七番目の速行心の業のみが、結生の果報を、生じせしめる。

もし、第七番目の速行心の業が無効業になる時、その時には、如何なる果報も生じない。

(2-12につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一番目の速行心の果報の状態

一番目の速行心は、力が非常に弱い為、その果報は、現前の、この一生においてのみ、現起(現象)する。

もし、果報が、この一生において現起(現象)しないのであれば、それは、無効業となる。

無効業とは、何の果報も齎さない業の事である。

しかし、一番目の速行心は、まったく果報の感得と無関係なものであろうか?

否である。

善なる事をなしたならば、一番目の速行心は、その作用を発揮して、善果を感得する。

たとえば、私は度々、仏法に関する著作をしたためるが、故に、私は、非常に深く三宝を尊重・尊敬している。

なぜであるか?

というのも、このような思心所は、我々を保護してくれて、種々の罪障を取り除いてくれるからである。

これは、一番目の速行心が果報の作用を生じる所の、一つの例である。

貧乏な摩訶度とカカウリヤは、阿羅漢に供養した後、現生(=現世)で、大富豪になった。

これは、清浄なる阿羅漢が、入定した後に托鉢に行った事が原因である。

阿羅漢の心は、比べるもののない程清浄であり、かつ安止していて、また、供養の品も、如法に得たものであるが故に。

このように、一番目の速行心が作用を生じ、布施した者に、現世において、大富豪になる果報を齎したのである。

ただし、このような状況は、めったに発生しない。

もし、一番目の速行心の力が、その果報を現起(現象)させる程の力を有しないとき、それは、過去の造(ナ)した所の業と組んで、果報を現起(現象)させる。

たとえば、小川があって、大雨が降ると、上流の水に雨水が加わり、勢いのある大きな流れに変化するようなものである。

もし、小川の水だけであるならば、ただ静かに流れているだけであるが、雨水が加わる事によって、各種の姿態を持つ波が生起する、という訳である。

過去の業は河の流れのようで、現在の業は雨水のようである。過去の業に、現在の業を重ねると、雨水が河に流れ込むように、一番目の速行心は、果報を生じる事ができるようになる。

そうでない場合、現生の、非常に混乱した所の一番目の速行心の大多数は、果報を産まない無効業になるのである。

(2-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」4-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

二、《小誦経》の註釈ーー10学処の説明

《小誦経》ーー(Khuddhaka-pāṭha)

《闡明勝義》(《小誦経》の註釈書)

1、私は、殺生を離れる学処を受持します。

2、私は、不与取を離れる学処を受持します。

3、私は、非梵行を離れる学処を受持します。

4、私は、虚妄語を離れる学処を受持します。

5、私は、放逸の原因となる穀物酒、果実酒と、酒類(を飲むこと)から離れる学処を受持します。

6、私は、非時食を離れる学処を受持します。

7、私は、舞踏(を見る事)、歌う事、音楽(を聞く事)、演劇(を見る事)から離れる学処を受持します。

8、私は、装飾を理由とする花飾り(+を身に付けたり)、香を振りかけたりする事から離れる学処を受持します。

9、私は、高くて、大きな椅子やベッドから離れる学処を受持します。

10、私は、金銀(金銭)を受け取る事から離れる学処を受持します。

(学処誦の本母)

上記のように(+ある種の人々は)、帰依する事によって(仏の)教えに進入した事を、顕現した。

(教法に)進入した事を示す為に、進入した所の近事男(upāsaka、在家居士)または出家者が真っ先に学ばねばならない学処(sikkhāpada)は、すでに(+上のように)〈学処誦〉として列記された。

次には、当該の本母(mātikā)を解説する。

(4-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

「雑穢語(samphappalāpa)」--これは、不善の思でもって、身と口において加行を生起せしめ、意味のない表現をするものを言う。

おこなわれた(雑穢語)が比較的遅鈍【軽い】である場合、小罪となる:

それが比較的【強い】場合は、大罪となる。

この(雑穢語)には、二種類の構成要素がある:

「バーラタの戦い、シータ姫の誘拐などの(物語)のような傾向を持つ、意義の無い論題、及び同傾向の言論。」

貪欲は「貪(abhijjhā)」であり、すなわち、他人の財物を見た後、それらを(擁したい)という傾向を生起させる義である。

その特徴は、以下のように思って、他人の財物を貪欲に取る事である:「おお、(もし)これが私のものであれば、どれほどよい事か!」

(貪の)小罪と大罪は、不与取(でのべたもの)と同様である。

この(貪)には、二種類の構成要素がある:「他人の財物である事

、及び己自身に属するように(+と願う)傾向を持つことである。」

ただ他人財物を基礎として、貪念が浮かぶだけでは業道は成立しないが、己自身の(属して欲しい)、すなわち、「おお、(もし)これが私のならば、どれほどよいことか!」という(+心)の傾向を持つとき初めて、(業道になる。)

利益を障碍する事(と)快楽は「瞋(byāpādo)」である。その特徴は、他人の意念を消滅する過失である。

(瞋の)小罪と大罪は、粗悪語(で述べたものと)と同様である。

この(瞋)には、二種類の構成要素がある:「その他の有情(+の存在)、対象を害したいという思念」

その他の有情を基礎として、憤怒を生起させるだけでは、業道にはならない。対象に対して損壊の思念が(生起した時):すなわち、「おお、もし(彼が)刺されたり、消滅したりしたら、どれほど良いか!」などと思う時初めて、(業道となる)。

如実に(+事実を)掌握していないが故に、所見に錯誤のあった時、それを、「邪見(micchādiṭṭhi)」と言う。

その特徴は、「布施はない【布施には果報がない】」などの方式の見顛倒である。(邪見の)小罪と大罪は、雑穢語(で述べたものと)同様である;また、非決定的な(邪見)は小罪であり;決定的なものは大罪である。

この(邪見)には、二種類の構成要素がある:「顛倒の方式でもって、事物に対応し、その対応によって、それらが(心中において)現起(現象)する。」

(4-1につづく)

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-9(80/230)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

「離間語」等について:

話しているその内容のすべてが、己自身を喜ばすものであって、他人(の喜び)とは空(無関係、無所有)である時、これを「離間語」という。

己自身、または他人(+に対して)粗悪な言葉で話す時、己自身がすでに粗悪であり、耳に悦なく、心が歓ばない場合、これを「粗悪語」と言う。

雑で穢く無用で、意義のない(話)は、「雑穢語」である。

上記は、それらの根源的な思によって、離間語などの名を戴くようになる事、当該の(思)のみが、それに相当する、という解説である。

「離間語(pisuṇā vācā)」は、雑染心の思であり、身、語の加行(=行為・努力)が生起して、他人を分裂させるか、または己自身に愛を向けさせる事を言う。

彼によって分裂させられた他人が、微徳の者であった時は小罪であり;

大徳であった時は、大罪である。

この(離間語)には、四種類の構成要素がある:

「分裂させられた他人が存在する事。

意図的に分裂を思い、『このようにすれば(彼らを)分けられる、別離させられる』と画策する事。

己自身が愛されたいがのために、(己自身の心内で以下のように思う):『このようにして他人に気に入られよう、親密になろう』、

そうなるような適当な努力、

他者が当該の義を知る事。」

「粗悪語(pharusā vācā)」は、柔軟な心で、話された時(+の言葉が乱暴であっても、それ)は、粗悪語とはならない。

しかし、言葉が柔軟であっても、粗悪語になる時はある。

例えば、人を殺したいと思っている人間が、「君よ、安らかに眠り給え!」と言った時、語彙自体は粗悪ではないが、心の粗悪さによって、粗悪語となる。

当該の(粗悪語)が、微徳の人に向けられた時は、小罪になり、大徳の人に向けられた時は、大罪になる。

この(粗悪語)には、三種類の構成要素がある:

「責められる人がいて、

瞋恚・怒りの心があり、

怒りを伴った罵りがある事。」

(3-10につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」3-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この時に破壊された利益が小さい時、小罪となる;

(破壊された利益が)大きい時、大罪となる。

または、たとえば、在家者が、己の所有物を布施したくないと思う時に、「(私は)ない」と言う時などは、小罪である。

偽の証(言)をして、利益を破壊する時、大罪である。

出家者に(たとえば、)少しのバターまたはギーしか持っていないのに、ふざけて、「私は河の流れのようなバターと共に村に来た」などと(嘘を)言うのは小罪であり、これまで見たことのないものを「見たことがある」などと言うのは、大罪である。

この(妄語、虚言)には、四種類の構成要素がある;

「不真実の事柄、

詐欺の心、

(+嘘をつく事への)努力、

他(人)が当該の義を知る事。」

方法は一種類、すなわち、自ら、である。

上記の事柄は、身と身に関連するものごと、または、語による他人への、欺瞞の行為である事を、理解しなければならない。

この行為によって、他人が当該の義を知る時、この行為を生じせしめた所の思の刹那が、虚妄語業の結と言われる。

(3-9につづく)

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

現生受業(=今の生で業を受ける事)の状況、それはちょうど、シャーリプトラとマハーカッサバ尊者の(+実践した様子が知られる)ように、彼らは托鉢の前に、先に滅尽定に入り、出定した後、本日、機縁の熟する衆生は誰か、と観察してから、その人の所に行って化縁(=縁を結ぶ)したものである。

布施者の現生受業が大いに利益のある事、大果報がある事を願って、供養を受ける者は、先に修行・努力をしておかねばならない。

阿羅漢のように、すでになんらの煩悩もないという状況の下、彼らは布施する者が、更なる利益を得られるように、供養を受ける前に、まず、入定する。

私は、これらの事柄に深い理解があるが、しかし、私は、会う人々全員に、布施をする事はできない。

私は、布施する対象を目の前にしても、(+よき結果を)求める事無く、布施をする。

ただ与える為だけに、与えるのである。

もし、私に(+よい結果を)得たいという気持ちがあるならば、清浄なる僧衆に布施して初めて、更に多くの利益を、得ることができる(+事を私は知っている)。

七個の速行心の中の、最初の速行心は、その力が弱いが為に、その果報は、唯一、現生受業しか生じ得ない。

最初の速行心は、なぜこのように弱いのであるか?

たとえば、檀香で衣服を燻す時、合計七日燻す必要がある。

一日目、衣服に少しばかりの、檀の香がする。

二日目、三日目、七日目、衣服はだんだんに香るようになる。

一番目の速行心の力は、一日目に薫じた衣服のように、香が非常に淡く、力は非常に弱い。

七番目の速行心の力は、七日間燻した衣服のように、最後に最も香り、最も力がある(+のと同じである)。

七番目の速行心に最大の力があるとして、それはいつ、現実の果報となって現れるのであろうか?

それは第二番目の生(=来世)において、である。

第七番目の速行心の力は強く、我々をして結生せしめるのに十分であり、それは、我々をして、もう一つ別の、新しい生命を生じせしめるのである。

(2-10につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>