<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
「離間語」等について:
話しているその内容のすべてが、己自身を喜ばすものであって、他人(の喜び)とは空(無関係、無所有)である時、これを「離間語」という。
己自身、または他人(+に対して)粗悪な言葉で話す時、己自身がすでに粗悪であり、耳に悦なく、心が歓ばない場合、これを「粗悪語」と言う。
雑で穢く無用で、意義のない(話)は、「雑穢語」である。
上記は、それらの根源的な思によって、離間語などの名を戴くようになる事、当該の(思)のみが、それに相当する、という解説である。
「離間語(pisuṇā vācā)」は、雑染心の思であり、身、語の加行(=行為・努力)が生起して、他人を分裂させるか、または己自身に愛を向けさせる事を言う。
彼によって分裂させられた他人が、微徳の者であった時は小罪であり;
大徳であった時は、大罪である。
この(離間語)には、四種類の構成要素がある:
「分裂させられた他人が存在する事。
意図的に分裂を思い、『このようにすれば(彼らを)分けられる、別離させられる』と画策する事。
己自身が愛されたいがのために、(己自身の心内で以下のように思う):『このようにして他人に気に入られよう、親密になろう』、
そうなるような適当な努力、
他者が当該の義を知る事。」
「粗悪語(pharusā vācā)」は、柔軟な心で、話された時(+の言葉が乱暴であっても、それ)は、粗悪語とはならない。
しかし、言葉が柔軟であっても、粗悪語になる時はある。
例えば、人を殺したいと思っている人間が、「君よ、安らかに眠り給え!」と言った時、語彙自体は粗悪ではないが、心の粗悪さによって、粗悪語となる。
当該の(粗悪語)が、微徳の人に向けられた時は、小罪になり、大徳の人に向けられた時は、大罪になる。
この(粗悪語)には、三種類の構成要素がある:
「責められる人がいて、
瞋恚・怒りの心があり、
怒りを伴った罵りがある事。」
(3-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」
中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>