Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-37(198/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.2 触(phassa)

パーリ語passa(触)の源は、phusati から来ており、その意味は「ぶつかりに行く」である。がしかし、触を、色法が身根にぶつかるだけの事である、と理解してはならない。

実際は、それは一つの心所であり、それを通して、心は、目標との「接触」を得、その事によって心路過程全体が始まる、という訳である。

触の特徴は「接触」である;

作用は衝撃、すなわち、目標と識を相互に打つ事;

現起(現象)は識、根門と目標を集合させる事;

近因は諸問の境に出現する。

その特徴は、非色法ではあるものの、それはなお、目標に接触する方式によって発生する。

それは目標に接触する、たとえば、安般似相などで、それを体験するのである。

この点を鑑みて、論師は、それはそれの自性であると言う、それがたとえ非色法であっても。

接触の特徴は、以下の様な状況の下で明確である:

他人が酸っぱいマンゴーまたは熟したマンゴーを食べているのを見て、己自身も唾が出る;

他人が災難に遭っているのを見る時、同情する者の身体が震える;

男性が非常に高い木の枝の上で立ち上がる時、地面にいる小心者の足が震える;

夜叉などの恐ろしいものを見た時、足が萎えて、力が無くなる。

これらの作用に関して、それは識と目標を繋ぐ、打つ所の法である。

触と境色の色塵と声塵の共通点は、効用はあるが、連結しない事である。

ちょうど、目と耳は、其々色塵と声塵(+と対応するが、しかし)それぞれに連結していない、のと同じである(ママ)。

実際は、触の衝撃とは、識と目標が集合して生起するものである(相聚する)。

それの現起(現象)が、集合による生起と言うのは、その作用によって形容されているのである、すなわち、根門、目標と識という、この三種類の項は、同時に発生する、たとえば、眼根、色塵と眼識などなど。

安般ジャーナに関しては、同時に発生する三項は、意門(有分)、安般似相(目標)とジャーナ心である。

その近因をば、根門に出現する所の境である、と言うのは、境色においてその中の一つの根門が顕現する時、それは適切な識の反応を通して、自然に生起するからである。

適切な識の反応とは:五門転向心または意門転向心は、当該の目標に転向する必要がある。安般ジャーナに関しては、意門転向心は必ず、安般似相を縁にとって、それを目標としなければならない。 

目標(安般似相)は、必ず、意門に顕現しなければならない。

これを、適切な識の反応という。

12.4.3 受(vedanā)

受とは、目標を感受する心所である。

それは、目標が体験される所の感受の方式である。

パーリ語 vedanā は、多くの異なった心所の、複雑な現象に関連する所の、感情の事をいうのではなく、純粋に、ある種の体験に対する感受を言うのである;この感受は、楽、苦、または捨であり得る。

初禅、第二禅、第三禅の受は楽聚であり、第四禅の受は、すなわち、捨受である。

12.4.3.1 楽受

楽受の特徴は、可喜所縁(=喜ばしい所縁、以下同様)の感受である、たとえば、安般似相、または、その特徴は満足である;

作用は、相応の名法の強化;

現起(現象)は支援;

近因は軽安。

其の他の心所はただ間接的に目標を体験するのみだるが、しかし、受は、直接、完全にそれを体験する。

この点に関して、その他の心所は、国王の為に食べ物を準備する料理人の様であり、食べ物を煮炊きする時に、少々味見をするくらいであるが、受は、(+国王は)国王の食べ物を、目いっぱい楽しむことができるのと同じである。

12.4.3.2 捨受

第四禅の受は、捨受である。

捨受の特徴は、中捨としての感受であること;

作用は相応の名法を強化することもなく、減衰することもない;

現起(現象)は安寧;

近因は無喜無楽の心。

12.4.4 想(saññā)

想の特徴は、目標の品質を体験する事;

作用は、次回、同様の目標に出会った時に「これはあれと同じものである」と知るために、それに標記する事、または以前すでに体験した事のある目標(abhinivesa)を認識する事、たとえば、視覚障碍者が「象」を見るが如くに;

近因は各種の形式でもって出現する所の目標、たとえば、幼児が案山子を人間であると思うなど。

その過程は、大工が、各種の木材の上に記して、それが何であるかを認識する為の記号と同じである、と比喩される。

ここにおいて、[安般ジャーナ]は、ジャーナ定に随伴し、安般似相を体験する想である、と定義する。

12.4.5 思(cetanā)

思は、識知の過程の目的を実現する心所であり、故に、「思」と呼ばれる。

諸々の注疏における思の解釈は以下の通りである:

それは各々に相応する法が、目標に対して行動を起すのを組織する事である。

その特徴は、願望的な状況を呈する事;

作用は(業の)累積;

現起(現象)は相互の配合の指導;

近因は相応の法。

それは一人の大弟子の様である、大工の仕事を主管するか、指導して、己自身の仕事また他人の任務を遂行する。

一人の大弟子は、己自身、読経の任務を遂行するだけでなく、その他の弟子が読経するのを助ける;こうしたことから、思が目標に対して作業を執行する時、それはまた、その他の相応する法に対して、各々任務を執行する様に指揮する。それが、相応法に対して、緊急の任務または憶念または安般似相などの目標に専注する様に促す時、それは明確、明晰になる。

思は、業を造(ナ)す最も主要な要素である、というのも、(+人々が)採用する所の行動の善・悪は、思によって決定されるが故に。

ここのおいて、それは、己自身及びそれに相応する所の名法が、安般似相を目標として縁に取る、という作用を完成させる。

12.4.6 一境性(ekaggatā)

一境性とは、心及びその目標(たとえば、安般似相)が結合して一境になる事を言う。

それは、ジャーナの中において、禅支として初めて顕著になることができるが、諸々の阿毘達摩の論師たちは、一切の心の中において、たとえ最も基本的な心の中においてさえも、それは心をして専一させる能力を擁していて、心を目標(たとえば、安般似相)に専注せしめる作用を執行する、と言う。

それは、心をして、平安・平穏に目標の上に置かしめるか、または目標の上に、正確に置かしめるか、または純粋に心をして専注せしめるがゆえに、それは定である。

一境性または定の特徴は、不散乱である;

作用は相応法の統一、それは粉石鹸に対する水の作用の如くである;

現起(現象)は平静;

通常、その近因は楽。

心の安定とは、無風の時の灯火の安定と同じ。

(6-38につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijyubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>