Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』9-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

3 または 4人

ある時には、禅修行者は(過去世において)3 または 4人の、まさに善業を造(ナ、以下同様)している人を、その善業を造している所の目標の中において、見る事がある。

もし、この様であれば、彼らの四界を、逐一識別し、次に、彼らの名色法を識別する。

一人ひとりの有分心を、識別する事を主とする。

禅修行者は、非常に容易に、当該の有分心が、己自身のものであるかどうかを、識別する事ができる。

その理由は、禅修行者が慧眼で己自ら、今世の己自身の有分心及び、過去の有分心が、同一の名(ママ)相続流に中に、出現するのを知見したならば、当該の、過去の有分の心は、己自身のものであるという事を、理解する事ができる。

まさに識別している所の、過去の有分心が、己自身のものでないならば、彼は、それが己自身のものでない事を、非常に容易に、知る事ができる。

その理由は、それが、己自身の名(ママ)相続流とは、何等の関係もないからである。

もし、過去の名色が、己自身のものでない場合、それと己自身の名色相続流とは、同じ一つの相続流ではなく、それらの間には、関連する事がない(+という事が分かるのである)。

己自身の過去世と、今世の名色流は、相続的・連続的に生起するものであり、その前後の関係性は、連続的、連携的に、同一の相続流の中において出現する。

もし、禅修行者が、斯くの如くに、名色は、同一の相続流の中において生起している事を、知見することができるならば、彼は已に、一性理を知見したのだと言える。

今世及び、未来世の名色流に関して、それらは、同一の相続流の中において生起する事を識別する方法もまた、同じである事を、理解しなければならない。

断見と常見

この智は、絶え間ない名色相続流、因果の間に連貫する所の関係、たとえば、過去世の因と今世の果;今世の因と未来世の果などを、徹底的に知見する。

故に、「生命はただ揺り籠と棺桶の間にのみ存在する。死後には、生命と言うものはなく、棺桶の後にはまったく何もない」という断見(uccheda diṭṭhi)を断じ除く事ができる。

その反対に、もし、因果の間にある関係を、正確に知見する事ができないまま、それらを間違って識別するならば、常見(sassata diṭṭhi)が生起する。

それらを、間断の無い因果関係であり、また、間断の無い名色相続流は、単一の、一個の生命であると誤認し、識別するのである。

因名色と果名色の二者の無常・苦・無我を知見していなが故に、彼は当該の邪見に執着し、その名色相続流は、単一の、一個の生命に属しているのだと見做してしまう。

この種の邪見を、常見と言う。

(9-29につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>