<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《各自各々》
一切の有情は、各々自ら無明と行を有している。
諸々の有情の間の無明と行は、それぞれ異なっている。
たとえば、この人は、男性に生まれる様にという、無明、愛、取に取り囲まれた、行と業の発願を造(ナ)しており、また別の人は、女性に生まれる様にという、無明、愛、取に取り囲まれた、行と業の発願を造(ナ)している:
この人の布施業は、果を引き起こし;
もう一人の持戒業は、果を引き起こし;
またもう一人の人の禅修業は、果を引き起こす。
また、布施業の中において、この人は、食物の布施による業が、果を引き起こし、もう一人の人は、花を供養した業が、果を引き起こす。
その上、己自身の名色相続流の中において、諸々の、世間的な無明と、行の状況もまた、それぞれ異なるものである。
こうしたことから、智でもって、己自身の名色流(のみに)已に生じた、正に生じつつある、将に生じようとしている無明と行をのみ、観ずるべきである。
無明、愛、取、行及び業を追尋する方法は、縁起第五法の解説の時に、已に説明した為、ここでは重複せず、ただ、識別の方法を説明する。
この章で列挙する識別方法は:
「無明が生起するが故に、行が生起する・・・」等々である。
縁摂受智、生滅随観智と壊滅随観智の段階においては、上に述べた説明に従って、禅修をする事。
《無明の縁によりて行》(Avijjāpaccayā saṅkhāra)
(無明が生起するが故に、行が生起する)
智でもって「過去世で造(ナ)した無明(愛、取)すなわち、煩悩輪転は、過去世において造(ナ)した行(業)であり、すなわち、それによって業輪転もまた、生起する」を知見した後、以下の様に因果を識別する:
「無明が生起するが故に、行が生起する;
無明は因、行は果。」
ここにおいて、過去世で生起した無明と行は、以下の心路過程において出現する:
表9-1:意門心路過程(略)
註:無明の多くは、貪見グループ20名法(心と心所)において生起する。
ある時には、それは19の名法として出現する、捨俱、無喜(+として)。ある時には、それは昏沈睡眠と相応する22または21の名法として出現する。
この四種類は、貪根邪見相応である。
彼所縁は、生起する時もあれば、生起しない時もある。
若し、彼所縁が喜俱速行の後に生起したならば、その彼所縁は、喜相応である。
有因彼所縁と無因彼所縁は、状況によって生起する。
行についても、斯くの如くに類推すること。
上に述べたものは、人類の行為の例である。
その行の中において、智と喜は、状況によって生起する。
名業処が示す様に、それは状況によって、34、33または32であったりする。
彼所縁は生起したり、しなかったりする。
禅修行者が観禅の段階に到達した時に、これらに関して、心路過程にそって、その生・滅する名法を識別した後、彼は因と果の三相を観照しなければならない。
一つひとつの密集を、智でもって看破する。
五門心路過程は、結生果を引き起こす事はできず、ただ転起果だけを、引き起こすが故に、ここではただ、意門心路過程のみに、言及した。
(10-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>