Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』(3-35)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(20/560)

《身至念(32身分)》

《増支部・三集・10-5掬塩品・11-相経》(Aṅguttara Nikāya、Tika Nipāta、10-5 Loṇakapallavagga、11-Nimitta Sutta)において、仏陀は、止禅心と観禅心の二者共に、明るい光がある、と述べている。

第四禅の光が極めて明るい時、あなたは何をするべきか?

その時は、その他の止禅業処の修習に転換する、よいチャンスである。

まず、あなたは光を、更に強く、更に安定するように修し、その後に、この光を用いて、己自身の髪の毛、体毛、爪、歯、皮膚などの、32 の身体部分を照らす様にする。

あなたは、それらを 6つのグループに分けなければならない。

先の四グループには、それぞれ五つの身体部分が含まれ、最後の二つのグループには、6個の身体部分が含まれる。

(3-36につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版

中国語→日本語翻訳文責 Paññay-adhika Sayalay>

翻訳『禅修指南』(3-34)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《定の修習におけるその他の法門》

前書き

安般念を修行して、第四禅に到達する方法は、すでに解説を終えた。

禅修行者が安般念によって第四禅に到達し、かつ五自在の修習に成功した後、禅定の光が明るく輝き、光が四方へ照射する時、彼は己自身の願望に従って観禅(vipassanā)の修習に転換する事ができる。

この時点で、彼は引き続き止禅の法門を修習する事もできる。

ここでは、その他の止禅の法門の修習の仕方を紹介する:32身分、白骨観及び白遍などである。

(3-35につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 

中国語版→日本語訳出翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay

 

 

仏教徒は何を信じるか~釈果道追善供養翻訳(C- 3)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仏法は、2500年前に、ゴータマ仏陀によって齎された。

仏陀は、彼の教法を宣揚する時、我々に対して、生命と世界について、理解する様、要求しただけではなく;

彼が発見した所の真理は正しく、また、実現性のある、解脱の道である事を、表明した。

仏陀の原始の教えは、宇宙と人生の真諦を含む。

仏教の創設は、仏陀の教義と、深く結びついている。

仏陀の教義は、専ら仏教の為にある訳ではなく、人類全体の文明の為にある。

仏陀の教義は、文化の主流となった;

歴史の中に歩み入り、多くの国々において、その国の文化として、受け入れられたのである。

彼は、文学、芸術、哲学、倫理と文明の発展と建設の上において、光り輝く成果を得た。

過去の何世紀にもわたり、無数の国家、社会と教育(+的事業)は、皆、仏教と関連性を保った。

これらの国家の歴史の中では皆、光栄にも、仏教の友善と友愛が、誇らしげに記載されている。

仏教徒が信仰し、実践する所の仏陀の教え、彼らは物質生活から遠く離れ、現実的で、科学的な宗教的な生活を送り、彼らの霊性は、充分に発展する事となった。

彼ら仏教徒は、仏法の導きの下、有意義な生活を送っているのである。

(D-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

<原題『仏教徒信仰的是什麼』中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

仏教徒は何を信じるか~釈果道追善供養翻訳(C- 2)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

ある種のインテリは、仏教を古代インドの文化・環境の産物だと見做すか、または、インド宗教の一種だと見做している。

実際は、仏教はこの様なものではなく、仏教とは、神聖な真理なのである。

仏教とは、正覚の智慧を得る、道筋の事である。

仏陀が、世間的な煩悩と困苦(+の原因)を証悟したのは、知識から、または理性による過程からではなく、心智の発展と浄化によって、齎されたものである。

知識性を立脚点にしている為に、人々に、科学的な態度を連想させるが故に、その結果、仏陀は、有史以来、唯一無二の宗教的導師となった。

当然、仏法の曙光がインドに出現したのは、智慧の探索と、倫理によって建設された社会的背景という、その様な条件が、伴っていた為である。

数百年来の宗教と哲学の発展が、インド本土の豊かな土壌を育んだ。

この肥沃な条件があって初めて、仏法の種は、芽を出す事ができた。

同時代のギリシャ、中国、エジプト及びバビロンは、豊かな思想の宝蔵ではあったが、当時のインドとは比べるべくもないものであった。

思想啓蒙の種は、まるで翼が生えたかの様に、世界の各地から、数えきれないほどの遥か彼方の時空から、一斉にインドの東北部に飛んできた;

この独特・特殊な種は、仏陀の身体の上において、完全な発育と成長を得ることとなった。

仏陀は覚醒を通して、正覚の体験を得た。

彼は教条を排し、また神秘主義を排して、信徒の信頼を得た。

彼は一種、有効的な、誰もが実証することのできる経験に基づいて、仏法を宣揚した。

彼は最も正しい語彙でもって、仏法に対して、堅実で嘘偽りのない定義を下した、すなわち;

神聖なる真理(聖諦)である。

我々は、仏陀が、学術的な理論でもって我々を指導するのではなく、彼の覚醒、彼の真理への納得及び、彼が実証した所の、真理の成就の上に立って、我々を指導しているのだ、という事を理解しなければならない。

(C- 3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

<原題『仏教徒信仰的是什麼』中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

仏教徒は何を信じるか~釈果道追善供養翻訳(C-1)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仏教徒信仰的是什麼』から抜粋翻訳

(P70~) 

《仏教とは何か?》

仏教とは神聖なる真理である。

仏教とは何か?

この問題に、人々は困惑し、混乱して来た。

故に、人々は、常々、この様に質問をする:

仏教は哲学であるか?

宗教なのであるか?

人の生活様式に関する教えであるのか?

簡単に言えば、仏教とは、博く大きく、精緻で深く、どのような巧緻な人間であっても、それを固定的に説明したり、狭隘な範囲に押し込んだりする事はできないものである。

当然、仏教とは、哲学、宗教と生活の方式を含むものではあるが、しかし、仏教とは、上記に述べる範疇に収まらないものでもある。

固有の範疇または標識でもって仏教を定義しようとするのは;

ポスターを貼って、彼らが今、何をしようとしているかを、人々に伝えようとする様なものである。

もし、薬局を例にとると、我々の理解は更に、進むであろう。

薬局の告示板自体は、人々の病を治せないが、しかし、薬は確かに、病気の治療に有用である。

我々は薬によって病を治すのであり、薬局の広告や告示板を決して見ることはないのである。

同様に、仏教が有用であると認めるのであれば、それを利用すればよく、その広告の言葉、範疇を規定する言葉を、気にする必要ないのである。

仏教を、簡単な、または固定的な概念・範疇に押し込めたり、広告の形式に当てはめてはならない。

異なった人々が、異なった時代と環境の中で生活している。

仏教に対して、必然的に異なった見方と解釈が生まれるのは、当然である。

ある種の人々にとって、仏教とは、一塊の迷信と儀式の様に見える。

ある種の人々にとって、仏教とは、短期的な、利益を得る道具の様に見える。

ある種の人々にとって、仏教とは、古に流行した遊びの様に見える。

そして、ある種の人々にとって、仏教とは、インテリにとっての、思想体系であると思える。

ある種の人々にとって、仏教は、科学的発明の様に見える。

そして、敬虔な仏教徒とって、仏教とは、彼の生命全体であり、彼の一切を犠牲にしても、完成するべき人生の一大事だ、というのである。

(C-2につづく)

Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

<原題『仏教徒信仰的是什麼』中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

仏教徒は何を信じるか~釈果道追善供養翻訳(B-4)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

三番目の回答方法。

反問する方式でもって、質問者自身に疑問を解決させる。

例えばある人が問う:

「殺生はなぜ罪だと言われるのですか?」

これを彼に反問する:

「もし、その他の衆生があなたを殺害したならば、あなたはどの様に思うか?」

そうすれば、この問題はこれ以上答えなくても済む。

これは非常に自然な現象であり、もし回答したならば、却って混乱を齎すものである。

四番目の方法。問題を横においておく。

例えば、有る人が問う:

「この世界はいつから始まったのか?」

この問題は、人類にとって未だ正確な回答を得ることができない問題であり、推理かまたは想像に頼るしかなく、正確な回答はないのである。

仏陀の与えた回答の中には、今日明らかになった科学と適合するものが非常に多い。

ロバート・オッベンハイムは言う:

「我々が:

『電子の配列・順番は、皆同じであるか?』と問う時、答えは『No』である。

我々が:

『電子は静止しているか』と問う時、答えは『No』である。

また:『電子は運動しているか』と問う時、答えは『No』である。」

仏陀は、人間の死後の状況に関しても、上記と同じ回答を答えている。

しかし、これら仏陀の教えは、17、8世紀の科学者の理解しえないものである。

明晰に知っておきべき事は、仏陀はある種の問題に関しては、明確な答えを与えなかった、という事である。

しかし、それでも経典の中において、人を驚かせるに充分な科学的観点が述べられている。

以上が、仏陀が、あれら好奇心に満ちた者を満足させる為に回答するのを良しとせず、彼らに正面から回答しなかった、その理由である。

(C-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

<原題『仏教徒信仰的是什麼』中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay

仏教徒は何を信じるか~釈果道追善供養翻訳(B- 3)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

二番目の回答方法。

分析と思考を必要とする質問。

例えば人が、以下の様な質問をしたとする:

アングリマーラは、阿羅漢を成就する前は、一人の残忍な殺人者であった。彼は、阿羅漢になる資格など、ないではないか。」

殺人者には、阿羅漢になる資格があるか、それともないか?

この問題は、分析と思考を必要とするが故に、いきなり「Yes」または「No」と答える事はできない。

もし、そうするならば、間違った回答を答えてしまうであろう。

各種の主観と客観的な条件を分析し、思考を経て後初めて、殺人者がこの一生において、阿羅漢になる資格があるかどうかの答えが得る事ができる。

(B- 4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

<原題『仏教徒信仰的是什麼』 中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>