<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
ある種のインテリは、仏教を古代インドの文化・環境の産物だと見做すか、または、インド宗教の一種だと見做している。
実際は、仏教はこの様なものではなく、仏教とは、神聖な真理なのである。
仏教とは、正覚の智慧を得る、道筋の事である。
仏陀が、世間的な煩悩と困苦(+の原因)を証悟したのは、知識から、または理性による過程からではなく、心智の発展と浄化によって、齎されたものである。
知識性を立脚点にしている為に、人々に、科学的な態度を連想させるが故に、その結果、仏陀は、有史以来、唯一無二の宗教的導師となった。
当然、仏法の曙光がインドに出現したのは、智慧の探索と、倫理によって建設された社会的背景という、その様な条件が、伴っていた為である。
数百年来の宗教と哲学の発展が、インド本土の豊かな土壌を育んだ。
この肥沃な条件があって初めて、仏法の種は、芽を出す事ができた。
同時代のギリシャ、中国、エジプト及びバビロンは、豊かな思想の宝蔵ではあったが、当時のインドとは比べるべくもないものであった。
思想啓蒙の種は、まるで翼が生えたかの様に、世界の各地から、数えきれないほどの遥か彼方の時空から、一斉にインドの東北部に飛んできた;
この独特・特殊な種は、仏陀の身体の上において、完全な発育と成長を得ることとなった。
仏陀は覚醒を通して、正覚の体験を得た。
彼は教条を排し、また神秘主義を排して、信徒の信頼を得た。
彼は一種、有効的な、誰もが実証することのできる経験に基づいて、仏法を宣揚した。
彼は最も正しい語彙でもって、仏法に対して、堅実で嘘偽りのない定義を下した、すなわち;
神聖なる真理(聖諦)である。
我々は、仏陀が、学術的な理論でもって我々を指導するのではなく、彼の覚醒、彼の真理への納得及び、彼が実証した所の、真理の成就の上に立って、我々を指導しているのだ、という事を理解しなければならない。
(C- 3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
<原題『仏教徒信仰的是什麼』中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>