Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-56(245/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

14.1 苦聖諦

仏陀は続いて開示して言う:

「比丘たちよ。

私が『この苦聖諦は了知されなければならない』と思惟した時ーー

これはいままで聞いたことのない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。

比丘たちよ。

私が『この苦聖諦はすでに了知された』と思惟した時ーー

これはいままで聞いたことのない法であり、私の心中には目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した」

 

こうしたことから、苦諦に関して、仏陀は三種類の智慧を教導している(+ことが分かる):

1、これは苦諦であると、必ず、了知しなければならない。

これを諦智(sacca-ñāṇa)と呼ぶが、その意味はすなわち、真理を了知する智慧の事である。

2、この苦諦は、了知されなければならない事を理解する事。

これを作智(kicca-ñāṇa)と呼ぶが、その意味はすなわち、己自身に、苦諦法を了知する義務がある事を理解しなければならない、という事である。

3、この苦諦は、すでにあなたによって了知されたと知る必要がある。これを已作智(kata-ñāṇa)と呼ぶ。

仏陀本人は、すでに五取蘊は苦諦である事を了知している(+のである)。

14.2  苦集聖諦

次に、仏陀は同様の、三種類の方式で以て、集諦(苦の因)を教える:

「次に、比丘たちよ。

私が『これは苦集聖諦である』と思惟した時ーー

これはいまだ聞いた事のない法であり、私の心中に目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

大悲心の故に、我々の菩薩は、四阿僧祇と十万大劫以上の時間を費やして、生命を惜しむことなく、無量の波羅蜜を累積した。

そうではあっても、彼は、仏陀の生命に対して、軽微な執着があった。

というのも、彼は、成仏した後(=仏陀になった後)、衆生が生死輪廻から解脱するのを、助けることが出来ることを、知っていたからである。

《法趣論》(Dhammasṅganī)の註釈である所の《殊勝義註》(Aṭṭāsālinī)に基づくと、我々の菩薩の最後の一世の果報五蘊を造った業力は、彼の前の一世の臨終の時に熟した慈心観善業力であった;

それは、いまだ慈心禅に到達していない、その前の強くて力のある善法である。その時、彼は仏陀になりたいと発願した;

仏陀仏陀を認定する事(仏陀としての実体を持つ存在がある、それはただ究極名色法の組み合わせにしか過ぎないという認識はない)は、無明である;

その無明のために、彼は仏陀になりたいと発願するのは愛である;

彼が仏陀の生命に執着するのは取である;

強くて力のある慈心観善業は行である;

それら行が残したエネルギー(業力)は業である。

この様に、無明、愛、取、行、業は、五項の過去因(+であることが分かる)。

仏陀は、この五項の過去因は、彼の集諦(苦の因)である事を了知した。

これは諦智である。

あなたが観禅を修習する時、苦の因を了知しなければならない。特に、観智でもって、因果関係を照見する事を通して、縁起法を了知しなければならない。

もし、縁起法を了知しないのであれば、涅槃を証悟することはできない、というのも、集諦は、四聖諦の中の一項であるが故に。

仏陀は引き続き開示して述べる:

「比丘たちよ。

私が『この苦集諦は断じ除かれなければならない』と思惟した時

ーーこれはいままでに聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

無明、愛、取は苦の因であり、観智と道智でもって、それらを断じ除かねばならない。

もし、これらの煩悩を完全に断じ除くことができたならば、あなたの一切の、いまだ熟していない業力は、いかなる果報をも生じることがない。

業力は、唯一、無明、愛、取の支援の下、果報を結ぶのであるが故に;

そし、無明、愛、取の支援がないのであれば、業力は果報を結ぶことができない。

故に、「この苦集諦は、断じ除かれなければならない」というこの言葉は、観智と道智でもって、煩悩を完全に断じ除くことを意味している。

これは作智であり、その意味は、なすべき事柄を了知している所の智慧の事である。

あなたは何をなすべきであるのか?

煩悩を断じ除くべきである。

註釈の解説によると、あなたは煩悩を「殺さ」ねばならない。

これは、煩悩を無余に滅尽するべきである事の説明である。

仏陀はまた引き続き開示して述べる:

「比丘たちよ。

私が『この苦集諦はすでに断じ除かれた』と思惟する時

ーーこれはいまだ聞いたことのない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

これは已作智である。

その意味は、すでに、(+完成させるべき事柄を)完成させたことを了知する智慧を言う。

仏陀は何をすでに完成させたのか?

仏陀は、すでに煩悩を断じ除いたか、または煩悩を殺したのである。

故に、集諦の中においては、諦智、作智と已作智という、三種類の智慧が存在しているのである。

観禅の修行の時、あなたは集諦を了知しなければならない;

これは諦智である。

あなたは、この苦因は断じ除かれるか、または殺されなければならないことを、了知しておかねばならない;

これは作智である。

あなたが涅槃を証悟する時、あなたの道智は、徐々に、徹底的に、煩悩を断じ除く、特に貪愛(集諦)を。

その時、あなたは己自身がすでに集諦法(苦因)を断じ除いたか、または殺したことを明瞭に知るであろう。

(6-57につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

   

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-55(242/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

14 仏陀自身の四聖諦の体験

《転法輪経》の中において、仏陀は彼自身自ら体験した四聖諦を説明している。

彼はどの様に述べているのか?

經文を見てみよう:

「比丘たちよ。

私は『これは苦聖諦である』と思惟している時ーー

これは以前において聞いたことのない法であり、私の心中には目(cakkhu、徹底した見)が生起し、智(ñāṇa)が生起し、慧(paññā)が生起し、明(vijja)が生起し、光(āloko)が生起した。」

「光が生起した」とは、智慧の光の事である。

智慧の光は、どの様にして生じるのか?

仏陀は強調して言う、智慧の光は特に、彼が、涅槃を証悟する時に生じた、と。

彼が、道心(magga-citta)と果心(phala-citta)でもって、 涅槃を証悟した時、この二種類の心はみな、多くの、色聚と呼ばれる微小粒子を生じた。

一粒一粒の色聚の中には、いくつかの種類の色法が含まれており、その中の一種は、色彩(vanna)である。道心と果心によって生じる一粒一粒の中の色聚の中の色彩はみな明るいものである。

また、これらの心生色聚の中の火界は多くの新しい色聚を生じることができる;

一粒一粒の新しい色聚の中の色彩もまた、みな、非常に明るく輝くものである。

火界によって生じる色聚は時節生色聚と呼ぶ。

これら時節生色聚の色彩の光明は、身体内部に散布されるだけでなく、身体の外部にも散布されう。

故に、(+身体の)内外において、みな、光明が生じるのであり、この種の光明は智慧の光と呼ばれる。

仏陀が涅槃を証悟した所の行、彼の心中には智慧の光が生じたのである。

この經の中において「徹底した見」「智」「慧」及び「明智」は同意語である。それはすべて、仏陀が四聖諦を領悟した所の四道智と四果智を指しているのである。

涅槃を証悟する前、菩薩は、七法及び非色七法によって、諸々の行法を無常・苦・無我と観照した。

最後に彼は、縁起支を無常・苦・無我として観照する事に重きをおいた。

菩薩のこの種の観智はまた同じく光明を生じたが、これは仏陀智慧の光と類似するものである。

仏陀の阿羅漢道智と果智は一切知智を生じる。

一切知智もまた、天神の光明を超越する所の、無量の光明を生じることができる。

これもまた、仏陀智慧の光である。

同様の道理で、あなたが涅槃を証悟する時、智慧の光が存在するに違いない。

もし、あなたが、すでに涅槃を証悟したと自認ておりながら、智慧の光を見ていないならば、あなたが体験したのは、真正な涅槃ではない。

私は涅槃に光がある、と述べているのではなく、涅槃を体験する道心と果心は、明るい色聚を生じることができる、と言っているのである。

この光明は、智慧の光と呼ばれるが、涅槃の光ではない。

また、あなたは、仏陀の直観した智慧ーー道智ーーを記憶した上で、苦諦を了知しなければならない。

何が苦諦であるか?

仏陀は以下の様に解説している:

「簡潔に言えば、五取蘊は苦である。」

仏陀はすでに、観禅の修行の時に、五取蘊を透視した。

同様に、あなたが観禅の修行をする時、五取蘊を透視しなければならない。

もし、五取蘊を了知することができないのであれば、観智を得ることはできない。

もし、五取蘊の状況を了知しないまま、観禅の修行をするのであれば、あなたの観智は浅薄なものとなり、真正な観智であるとは言えない。

仏陀は五取蘊は苦諦であると了知した。

同様に、もし、あなたがすでに、涅槃を証悟して、ソータパナ等の果位を成就したのであれば、あなたは必ずや五取蘊は苦諦であると了知しているはずである。

もし、あなたがいまだ五取蘊は苦諦であると了知しないのであれば、あたはソータパナまたは何らかの聖者になることはできない。

我々は更に解説を進めたいと思う:

色取蘊を例に取る。

仏陀の教えに基づくと、色法は、色聚の微粒的な形態でもって生起する。

あなたが、系統的に色聚を分析できる時初めて、色聚の中の究極色法を見ることができる。

観禅の修行の時、もし、色聚を見ることができないのであれば、または見た後で、それらを分析することができないのであれば、究極色法(paramattha-rūpa)を照見することはできないのである。

もし、究極色法を了知しないまま、観禅の修行をするならば、それは浅薄な修行法であって、真正な観禅とはなりえない。

(6-56につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

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パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-54(241/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13.4 上級レベルの観智

引き続き、仏陀は観禅の第三段階を開示する、それは以下の如くである:

「或いは、彼が『有身(=身はあるという事、以下同様)』の正念を建立するのは、ただ更に高度な智慧と正念の為である。」

禅修行者は慎重な態度でもって観察する事を通し、正念を建立する。

彼は思惟する:

「身があるという事、は存在する。

しかし、衆生というのはなく、人間というものもない、

男性というものはなく、女性というものもない、

自我(=私)というものはなく、私に属するものもない、

我はなく、我に所有されるものもない、

他人というのはなく、他人に属するものもない。」

これはどの様な意味であるか?

この部分の經文は、壊滅随感智から行捨智までの、これらの上級レベルの観智のことを言っているのである。

もし、前に説明した方法に従って生滅随観智を修習したならば、その観智が鋭利に変化した時、彼は名色法の壊滅だけに専注する様になる。

徐々に、彼は、色聚が見えなくなり、純粋に究極名色法のみが見える様になり、かつ、彼は名色法の生起が見えず、ただそれらの壊滅をのみ見る様になる。

その時、彼はただ「純粋なる」究極名色法の存在のみを見て、衆生、人間、男性、女性、私、私にしょゆうされる物、他人、他人に属する物は見えなくなる。

彼は色聚さえも見えなくなるのである。

「或いは、彼は『有身』の正念を建立するのは、ただ更に高度な智慧と正念の為である」

「ただ・・・ためである」は目的を指している;

正念を建立するのはその他の目的のためではないというのならば、それでは一体何のためであろうか?

ただただ「更に高度な智慧と正念」の為である。

その意味は:ただ益々広大なる、益々深遠なる智慧と正念の為、である。

言い換えれば、正知と正念の成長の為である。

この様に行法を観照する時、もし、あなたがそれらの壊滅をのみ見るならば、あなたは観智(+自体を)無常・苦・無我として観照しなければならない。

ここでいう所の観智とは、観智が最も顕著な意門心路過程を言うのである。

一つひとつの速行刹那の中において、通常、34個の名法があるが、これらの名法は観智と呼ばれる。というのも、智慧はそれらの指導者であるが故に。

こうしたことから古代の論師たちは、以下の様にいうのである:

「彼は観智でもって所知(=知られるもの)と智の両者を知見する。」(《清浄道論》)

13.5 阿羅漢果について

禅修行者がただ名色法の壊滅をのみ見る時、また、それらの壊滅を無常・苦・無我として観照する時、彼の観智は徐々に成熟する。

観智が成熟する時、五根もまた成熟し、その時、彼は阿羅漢道果を証悟する。彼の心中には、涅槃を目標にした道智と果智が生起する。引き続き修行すれば、最後に彼は、阿羅漢果を証悟することができる。

仏陀は阿羅漢の境地を解説して以下の様に言う:

「彼は独立して安住し、世間の何事にも執着しない」

「彼は独立して安住する」とは、

彼は邪見、渇愛、無明に依存しない安住することがない。

「世間の何事も執着しない」とは、

色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊をば、「これは私である」「これは私のものである」または「これは私の自我(=、私、我)である」などと認定しない。

何故であるか?

というのも、彼の道智は、完全に邪見、渇愛と無明を、断じ除いたが故に。

こうして、彼は、独立して安住し、邪見、渇愛と無明に依存して安住することがない。

以上が、阿羅漢果を証悟するまで、安般念を修行する時の、簡単な説明である。

もし、この様に、系統的に修行ができて、かつ充分な波羅蜜がある時、あなたもまた、今世で、涅槃を証悟することができるのである。

13.6 世間と出世間の四聖諦

次に、仏陀は安般念の一節の為に、以下の様な結論を述べた:

「比丘たちよ。これが比丘が身を身として観じて安住する方法である。」

安般念のこの一節の中において、呼吸を観察する所の正念と、正念の目標は五取蘊は苦諦である、という事である。

無明、愛、取、行及び業という、この五種類の過去因は集諦である。

苦諦と集諦という、この二者が、共に生起しないのは、滅諦であり、これは涅槃を指しており、出世間の滅諦である。

生滅随観智を育成する時、あなたは五種類の因が無余に滅尽するが故に、般涅槃の時、五蘊が無余に滅尽するのを観照することができるが、この二種類の滅は、滅諦と言う。

しかしながら、それらは、生滅智でもって了知した所の世間的滅諦に過ぎない。

あなたは、道智と果智によって、涅槃を証悟する時、あなたは初めて、出世間的滅諦ーー涅槃を了知することができる。

あなたはこの二種類の滅諦を区別しなければならない。

苦諦を了知し、集諦を捨棄し、滅諦を目標とする正道は道諦である。

この中において、世間的道智と出世間的道智を分別しなければならない。

世間道智は、五蘊を見ることができるが、これは苦諦を了知する観智である;

それは苦の因を見ることができるが、これは集諦を了知する観智である;

それはまた、五種類の因が完全に滅尽するが故に、般涅槃の時に五蘊が完全に滅尽するのを見ることができるが、これは滅諦を了知する観智である。

世間道とは、観智の道支について言及しているのみである。

正見は観智である。

正思惟、正精進、正念と正定というこの四支は、それと相応して生起する。

修行する前、あなたは先に持戒しなければならないが、それはすなわち、正語、正業と正命の三支である。

こうしたことから、合計八つの、世間道分があることになる。

禅修行者は、ある時には、観智自身が無常・苦・無我である事を観照しなければならない。

その時、彼は世間的な道諦を了知する。

こうしたことから、世間的正見は世間的四聖諦を了知することができるのだ、と言える。

出世間八聖道分と聖道智、聖果智は同時に生起するが、それらはみな、涅槃を目標とするものである。

その時、正見は、涅槃を了知し、正思惟は心をして、涅槃に投入せしめ、正念は、涅槃に対して、忘れない様にし、正精進は涅槃を了知する事に努力し、正定は、涅槃に専注し、正語、正業、正命という、この三種類の項もまた同時に存在する。

これは出世間的八聖道分である。

 

なぜ、禅修行者が涅槃を証悟する時、正語、正業、正命という、この三種類の項もまた同時に存在するのであるか?

というのも、聖道智が邪語、邪業、邪命を造(ナ)すことのできる煩悩を断じ除いたが故に、正語、正業、正命というこの三種類の項は、自動的に存在することになるのである。

この様に四聖諦を精勤して修行した後、寂静に到達することができる。

これが、安般念の修行に尽力した比丘の解脱の道である。

(6-55につづく)

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パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-53(238/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13.3.6 呼吸の因縁生・滅

 刹那から刹那の間の生・滅を明確に見ることが出来る時、もし、あなたが因と果の二者を無常・苦・無我として観照するならば、当該の観智は「思惟智」(sammasanañāṇa)と言う。

一つひとつの心識刹那の生・滅を明確に見る事ができる時、当該の観智は「生滅智」(udayabbayañāṇa)と言う。

今、私は註釈においてみえる、生・滅の解説を紹介したいと思う。

これは安般念に関する記述であるため、註釈もまた呼吸に関係する生・滅の解説となる。

「彼は身の生起の現象の観照に安住する」

というこの経文の句は、ちょうど鉄工に使うフイゴの外箱(=ケース)の様に、フイゴに装着された吹き込み口と、適切な労力によって、空気は初めて、フイゴの中に入って行くことができる。

同様に、所生身、鼻孔と比丘の心に依存して、呼吸身は初めて、鼻孔に入る事ができる。

所生身などは、呼吸身の生起する因と縁である。

この様に観照することがすなわち、呼吸身の生起の現象の観照に安住する事、である。

註釈のこの部分は、容易に理解する事が困難かも知れない。

あなたが系統的に、呼吸に対して、四界分別観を修習する時、あなたは色聚を見ることができる。

色聚を分析した後、9種類の究極色法を見ることができる。

なぜ、この 9種類の究極色法が生起することができるのか?

もし、あなたの身体が壊滅したならば、呼吸は独自に発生することができるであろうか?

できないのである。

身体がなければ、呼吸もまたないのである。

もし、この身体を分析するならば、あなたは業生、心生、時節生と食生の、この四種類の色法を見ることができるが、これらを所生身と呼ぶ。

所生身があるが故に、呼吸身もまた初めて、生起することができる。

故に、所生身は呼吸身の生起するための一項の要素である、と言える。

また、若し、心がないのであれば、呼吸身が生起することはできない。

故に、心もまた呼吸身が生起する為の一項の要素であると言える。

一つひとつの心所依処に依存して生起する所の心は、みな、呼吸を生じることができる。

しかし、心は、相応の心所と共に生起する必要がある。

心と心所は、四つの名蘊であり、所生身と呼吸は色蘊である。

故に、合計では五蘊となる。

所生身はフイゴの外箱の様であり、鼻孔はフイゴの吹きこみ口の様であり、心は、適切な労力の様である。

所生身、鼻孔、心が生起するが故に、呼吸は生起することができる。

あなたは、この様に、生起の現象を観照しなければならない。

それらの中において、心はもっとも主要な因である。

しかし、心は所生身に依存して初めて生起することができる。

こうしたことから、所生身もまた一個の因である、と言える。

これが、呼吸における因果関係である。

しかしながら、呼吸身の因果関係を観照するだけでは足りないのであり、五蘊の因果関係もまた観照しなければならない・・・それはすなわち、過去の第一世の臨終の時に熟した所の、無明、愛、取、行及び業という、この五種類の因によって造られる所の現在世の五蘊、過去の二番目の世の臨終の時に熟した所の、五種類の因が造り出す所の、過去の第一世の五蘊観照した後、更に過去に進んで、観照し続けなければならない。

同様に、現在世の臨終の時に熟する五種類の因が造る未来の一番目の世の五蘊観照した後、更に未来へと観照を続けるのである。

この様に、過去、現在、未来の因果関係を、未来において、あなたが般涅槃する時間で観じ続けなければならないのである。

註釈はまた、呼吸身の壊滅の現象を解説する。

「身の壊滅の現象の観照に安住する」という、この經文の句は、フイゴの外箱が取り除かれて、吹き込み口が壊れ、または適切な労力に欠ける時、空気は進出することができない(+ことを意味する)。

同様に、所生身が壊れ、鼻孔が損壊するかまたは心が作用を停止するならば、呼吸身もまた壊滅する。

あなたは以下の様に観照しなければならない:

未来において、無明、愛、取、行及び業というこの五種類の因が無余に滅尽するが故に、未来の五蘊もまた無余に滅尽する。

この様に観照する事がすなわち、身の壊滅の現象、または因縁の滅の観照に安住する、を意味するのである。

あなたはまた、身の生起と壊滅の現象を観照しなければならない。

(6-54につづく)

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<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

般若の独り言~一千万年の孤独

今毎日、パオ Sayadawの著作『顕正法蔵』を翻訳しています。今日は【因縁生・滅と刹那生・滅】の部分でした。

私、子供の頃から

<刹那生・滅>

って何だろうか?と思っていました。

<因縁生・滅>ではあまり強く感じませんが、

<刹那生・滅>と聞くと、これが世界の本質だろうと直感し、心が、魂が、震える思いがするのです、今も昔も。

ーー<因縁生・滅>と<刹那生・滅>はコインの裏と表の関係であり、どちらも重要であり、どちらも外す事はできないのですがーー。

不思議な事に、私は10代の時に、原始経典『雪山童子』で、《諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静》を、一生の課題とするべき、深い意味を伴った教えとして受け取ったのですが、それより前、子供の時から<刹那生・滅>に、異常な関心を持っていて、我ながら、不思議な子供だったですね。

今、毎日の日課・・・水中運動で出会う知人、友人に<刹那生・滅>の話をしても、皆様、ぽかんとするだけで、全然耳に入らない様です。

<刹那生・滅>が好きな女の子・・・いや~、オタクなんですね、私(笑)。

生まれて来たのは訳がある・・・因縁生、刹那生。

それ(生死輪廻)を解消する方法がある・・・因縁の滅、刹那滅を観じて、昇華し超える事・・・般涅槃する事。

まぁ、この話、兄弟姉妹を含め、身近の人、誰にも分かって貰えませんけれど(テーラワーダ仏教国の出家者なら分かるでしょうが)、一千万年の孤独・・・、生き切りましょうか・・・これより先、(『顕正法蔵』の翻訳を済ませて後)目を閉じるその日まで、修行専一の生活ができます様に。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-52(236/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13.3.5 因縁生・滅と刹那生・滅

仏陀はまた続けて開示して言う:

「或いは身の生起と壊滅の現象を観照して安住する。」

この経文の句の意味は以下の通り:

あなたは因縁生・滅及び刹那生・滅という、この二者を観照しなければならない。

どの様に観照するのか?

あなたは:五種類の因が生起するが故に、五蘊が生起する;

五種類の因が無余に滅尽するが故に、五蘊が無余に滅尽する事を観照しなければならない。

これを因縁生・滅智見(paccayato udayabbaya ñāṇadassana)と言う。

その後、五種類の因が生起するや否や、即刻壊滅するが故に、それらは無常である事を観照しなければならない;

五蘊もまた生起するや否や、即刻壊滅するが故に、五蘊もまた無常なるものである。

これを刹那生・滅智見(khaṇato udayabbaya ñāṇadassana)と言う。

この段階において、あなたはこの二種類の智見を育成しなければならない。

先に、あなたは、縁起第五法に基づいて、結生色蘊の因縁生を観照し、その後に、般涅槃後の色蘊の因縁滅を観照する、すなわち、阿羅漢道を証悟する時、諸々の因が無余に滅尽し、色蘊が無余に滅尽する事(+を観照するのである)。

この二種類の無余滅尽を照見した後、以下の様に観照を続ける:

1、無明が生起するが故に、結生色蘊が生起する;

無明の無余に滅尽するが故に、般涅槃の後、色蘊が無余に滅尽する;

無明も無常、色蘊もまた無常である。

2、愛が生起するが故に、結生色蘊が生起する;

愛が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;

愛も無常、色蘊もまた無常である。

3、取が生起するが故に、結生色蘊が生起する;

取が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;

取も無常、色蘊もまた無常である。

4、行が生起するが故に、結生色蘊が生起する;

行が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;

行も無常、色蘊もまた無常である。

5、業が生起するが故に、結生色蘊が生起する;

業が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後色蘊が無余に滅尽する;

業も無常、色蘊もまた無常である。

あなたは、業力を無常として観照してはならない、というのも、業力は、究極法ではないが故に、それはただ行のエネルギーに過ぎないのである。

故に、あなたは行をば、無常として観照しなければならない。

というのも、観智の目標は究極法であるが故に。

同様の観法は、その他の諸蘊の観照にも適用される。

六門心路過程の中の一つひとつの心識刹那には、みな五蘊が存在している。

あなたは同様の方法を用いて、それらを観照しなければならないが、しかし、それらを無常としてにみ観照するのではなく、それらの苦、無我もまた観照しなければならない。

しかしながら、あなたは、一人の良師の下で修行するべきである、というのも、あなたは多くの疑問と困難に出会っても、己自身で解決するのは困難であるが故に。

また、あなたは縁起第一法に基づいて、下記の如くに、観照しなければならない:

1、無明が生起するが故に、行が生起する;

無明が無余に滅尽するが故に、行が無余に滅尽する;

無明は無常であり、行もまた無常である。

2、行が生起するが故に、識が生起する;

行が無余に滅尽するが故に、識が無余に滅尽する;

行は無常であり、識もまた無常である。

3、識が生起するが故に、名色が生起する;

識が無余に滅尽するが故に、名色が無余に滅尽する;

識は無常であり、名色もまた無常である。

4、名色が生起するが故に、六処が生起する;

名色が無余に滅尽するが故に、六処が無余に滅尽する;

名色は無常であり、六処もまた無常である。

5、六処が生起するが故に、触が生起する;

六処が無余に滅尽するが故に、触が無余に滅尽する;

六処は無常であり、触もまた無常である。

6、触が生起するが故に、受が生起する;

触が無余に滅尽するが故に、受が無余に滅尽する;

触は無常であり、受もまた無常である。

7、受が生起するが故に、愛が生起する;

受が無余に滅尽するが故に、愛が無余に滅尽する;

受は無常であり、愛もまた無常である。

8、愛が生起するが故に、取が生起する;

愛が無余に滅尽するが故に、取が無余に滅尽する;

愛は無常であり、取もまた無常である。

9、取が生起するが故に、業有が生起する;

取が無余に滅尽するが故に、業有が無余に滅尽する;

取は無常であり、業有もまた無常である。

10、業有が生起するが故に、生有が生起する;

業有が無余に滅尽するが故に、生有が無余に滅尽する;

業有は無常であり、生有もまた無常である。

同様の観法は、一切の縁起支に適用する。

ただそれらを無常としてのみ、観照してはならない。

それらの苦と無我もまた観照する事。

縁起第一法の中では、無明から死までの12の支があるが、しかし《無礙解道》において、無明から10支をば、生滅智の目標としているが、それは何故であるか?

究極法の生時、住時と壊滅の時、それぞれを、生、老、死と呼ぶ。

生、老、死には三個の段階がなく、それぞれ、一個の段階しか擁しない、それはすなわち、各々、生時、住時、壊滅時である。

究極法が無常であるのは、それらがひとたび生起するや否や、即刻壊滅するからである;故にそれらは三個の段階を持つ。

しかし、生、老、死は、みな、一個の段階に属するが故に、それらを無常・苦・無我として観照してはならないのである。

二種類の「有」(bhava)がある:

業有(kammabhava)と生有(upapattibhava)である。

果報五蘊は生有と呼ばれる。善または不善思、また行は業である;

それらはまた観禅の目標である。

《発趣論》の「業縁」の章に基づくと、思または行のエネルギーを業と呼ぶが、これは観禅の目標ではない。

《増支部》の中において、仏陀は以下の様に言う:

「思は業である」

これは観禅の目標である。

縁起を更に明確に理解する為に、私は以下の表を用いて、因と縁の関係を明示したいと思う。

三個の表は、三時の中における因と果の間の関係を示したものである。

あなたは縁起支を、あなたが最も遠い一個の過去世を観じることができるまで、無常・苦・無我を観じなければならない。

未来世に関しては、あなたはまた(+上に述べた様に)するべきである。

この様に実践するためには、あなたは先に、出来るだけ多くの過去世の因果を識別しなければならない。

未来世の因果を識別する時、あなたは最も遅い未来世を識別しなければならない。すなわち、般涅槃の時まで。

この様に識別した後でのみ、あなたは理解する事ができる:

「諸々の因が無余に滅尽するが故に、五蘊もまた無余に滅尽する。」

あなたはまた以下の事を理解出来る様になる:

過去において縁法と縁生法があり、未来と現在に置いても、縁法と縁生法がある。これを除いて、有情や人間がいるわけではない。あるのは、一群の行法のみである、と。

行法を観照する智慧は「所知遍知」(nāta-pariñña)と呼ぶ。

この様に諸々の行を観照する比丘は、すでに十力物の教法の中で根を生やしており、すでに立脚点を得ている。

彼は、行くところがすでに決定された小ソータパナ(cuḷasotāpanna)である。

もし、この如くの(良い)気候に恵まれ、導師または禅修の法友に恵まれ、食べ物と四聖諦に関する説法に恵まれるならば、その適切な法によって、一度の座禅・瞑想の内、一節の殊勝な時間の中において、彼は継続的な観智でもって諸々の行法の三相を観照する事を通して、阿羅漢果を証悟する事ができるであろう。(《迷惑氷消》)

縁起表1(略)、縁起表2(略)、縁起表3(略)。。

訳者注:上記、三種類の縁起表は、当ブログでは作成できない為、<菩提樹文庫>PDF版において、管理人様に制作して頂いて後、挿入する予定です。

(6-53につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

  

 

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-51(230/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

13.2 思惟智

五取蘊及びそれらの因は、行法と呼ばれる;

それらは観智の目標である。

あなたは、それらの刹那生・滅を明確に知見する為に、それらの無常・苦・無我の本質を観照しなければならない。

もし、この一点を見ることができたならば、あなたは、それらの因と縁の生・滅を、観照することができる。

13.3 生滅随観智

13.3.1 因縁生と刹那生

私は結生色蘊の例をとって、どの様にして因縁生を観照するのかを説明する。

あなたはまず先に、前に述べた様に、過去の五因:無明、愛、取、行および業を識別しなければならない。

次に、結生刹那の30種類の色法を識別する。

もし、過去の五因を見ることができたならば、というのも、業力と結生時の業生色法の間の因果関係をみることができたならば、あなたは以下の如くに、因縁生を観照しなければならない:

1、無明が生起するが故に、結生色蘊が生起する。

2、愛が生起するが故に、結生色蘊が生起する。

3、取が生起するが故に、結生色蘊が生起する。

4、行が生起するが故に、結生色蘊が生起する。

5、業が生起するが故に、結生色蘊が生起する。

次に、結生色蘊の刹那生を観照する。

これを「刹那生相」(nipphattilakkhaṇa)と呼ぶ。

色蘊の生起を見た人は、この相を見たのだと言える。

あなたは同様の方法によって、その他の蘊を観照しなければならない。

良師の下で、当該の修行を実践することを忘れてはならない。

六門心路過程の中の、一つひとつの心識刹那には、みな五蘊が含まれる。

あなたは逐一、一つひとつの蘊の因縁生と刹那生を観照しなければならない。

この様に因縁生を観照した後、次に、縁起第一法の方式に従って、因縁生を観照するが、それは以下の通りである:

1、無明が生起するが故に、行が生起する。

2、行が生起するが故に、識が生起する。

3、識が生起するが故に、名色が生起する。

4、名色が生起するが故に、六処が生起する。

5、六処が生起するが故に、触が生起する。

6、触が生起するが故に、受が生起する。

7、受が生起するが故に、愛が生起する。

8、愛が生起するが故に、取が生起する。

9、取が生起するが故に、業有が生起する。

10、業有が生起するが故に、生有が生起する。

次に、一つひとつの縁起支の刹那生、すなわち、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、業有と生有の刹那生を観照しなければならない。

13.3. 2 因と果の無余滅尽

諸々の行の因縁生の観照(+の仕方)を教えた後、仏陀は開示して以下の様に言う:

「身の壊滅の現象を観照することに安住する」

その意味は:彼は、五因が無余に滅尽したが故に、五蘊もまた無余に滅尽するのを観照しなければならない。

この種の観智は因縁滅智見(paccayato vaya ñāṇadassana)というが、すなわち、因と果の滅尽を照見することのできる智慧の事である。

どの様な時、無明、愛、取、行及び業の五種類の主因は、無余に滅尽するのか?

仏陀の教えに基づけば、煩悩は、あなたが阿羅漢道を証悟した時に、無余に滅尽するが故に、般涅槃の後は、如何なる果報も生じることがない。

あなたの阿羅漢道は、五因を無余に滅尽する。

五因が無余に滅尽するが故に、般涅槃の後、一切の五蘊は、無余に滅尽する。

あなたはこの種の壊滅を知見できる様、チャレンジしなければならない、というのも、仏陀は《大念処経》の中において、以下の様に開示して言うが故に。

「彼は身の壊滅現象を観照する事に安住する。」

あなたはこの「身」とは、色身と名身であることを忘れてはならない。

今、あなたは未だ阿羅漢ではない。

あなたはいつになったら、阿羅漢道を証悟するであろうか?

今生であるか、未来世であるか?

もし、あなたに充分な波羅蜜があり、かつ持続的に修行に精進するならば、あなたは今世において阿羅漢道を証悟することができる。

今世で証悟したとしても、刹那生・滅の角度から見ると、現在からみれば、その時をば、未来と呼ぶことができる。

もし、あなたが来世に阿羅漢道を証悟するならば、来世はあなたの未来である。

あなたが阿羅漢道を証悟する、あなたの見たいにおいて、無明、愛、取、行及び業という、この五種類の因は、無余に滅尽するであろう。

この五種類の因が無余に滅尽するが故に、般涅槃の時、五蘊は無余に滅尽するのである。

あなたは二種類壊滅を照見しなければならない。

この種の観智は、壊滅智見(vaya ñāṇadassana)と言うが、それはすなわち、因と果の無余滅尽を観照する智慧である。

13.3.3 因縁滅と刹那滅の観法

我々は一つの例をあげて、如何にして縁起第五法によって諸々の蘊の因縁滅と刹那滅を観照するのかを説明する。

前に述べた二種類の壊滅を観じることができる時、あなたは以下の様に観照しなければならない:

1、無明が滅尽するが故に、色蘊が無余に滅尽する。

2、愛が滅尽するが故に、色蘊が無余に滅尽する。

3、取が滅尽するが故に、色蘊が無余に滅尽する。

4、行が滅尽するが故に、色蘊が無余に滅尽する。

5、業が滅尽するが故に、色蘊が無余に滅尽する。

次に、あなたは色蘊の刹那滅を観照しなければならない。

あなたは、同様の方法によって、その他の諸々の蘊を観照する。

六門心路過程の中の、一つひとつの心識刹那の中には、みな五蘊が存在する。

あなたは同様の方法を用いて、それらを観照しなければならない。

あなたは一人の良師を得て、学習しなければならない。

あなたはまた、縁起第一法に基づいて、縁起支の因縁滅と刹那滅を観照しなければならない。

あなたは先に、前に述べた、二種類の無余滅尽を観じなければならない。

もし、将来において、(+あなたが)阿羅漢果を証得する時、諸々の因が無余に滅尽するのを見たならば、あなたは、以下の様に、因縁滅と刹那滅を観照しなければならない。

1、無明が無余に滅尽するが故に、行が無余に滅尽する。

2、行が無余に滅尽するが故に、識が無余に滅尽する。

3、識が無余に滅尽するが故に、名色が無余に滅尽する。

4、名色が無余に滅尽するが故に、六処が無余に滅尽する。

5、六処が無余に滅尽するが故に、触が無余に滅尽する。

6、触が無余に滅尽するが故に、受が無余に滅尽する。

7、受が無余に滅尽するが故に、愛が無余に滅尽する。

8、愛が無余に滅尽するが故に、取が無余に滅尽する。

9、取が無余に滅尽するが故に、業有が無余に滅尽する。

10、業有が無余に滅尽するが故に、生有が無余に滅尽する。

次に、一つひとつの縁起支の刹那滅、すなわち、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、業有と生有の刹那滅を観照しなければならない。

13.3.4 過去、現在と未来の名色

 もし、観智で以て、直接因果関係を了知したいと思うならば、あなたは先に、過去、現在と未来の名色法を観照しなければならない。そうでなければ、あなたは因と果の無余滅尽を見ることはできない。

ここまで説明しても、あなたはなお、仏陀は《大念処経》の中で、現在の名色法だけ観照すればよいと教えた、というのであろうか?

もし、仏陀の教えを理解するならば、あなたは、その様には言わないであろう。

過去、現在、未来の名色法は、みな観照されなければならない、というのも、それらはみな、観智の目標であるが故に。

もし、過去、現在と未来の名色法を観照しないのであれば、あなたは縁起の法を理解することができないし、また、因果の生・滅を無常・苦・無我として観照することができない。

そうであれば、生死輪廻を離脱することはできないのである、というのも、仏陀は《大因縁經》の中において、その様に述べているが故に。(6-52につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>