Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

65歳の仏教修行報告書(5)>心と身体

「心と身体は自分のものではないですよ」と言われたら、大概の人(100%?)は「え~~、そんなのあり得ない!」と言いますね。

私がタイのカンチャナブリの山奥の森林寺院でこれを言われた時「ああ、これで救われる」とほっとしたのを覚えています。

仏教の修行で32分身というのがあり、初禅にはいれるようになった修行者はこれをやります。自分で「これは肺、これは胃、これは腸、これは肝臓、これは胆管」と、身体の内部を調べていくのです。では、身体を調べているのは誰でしょうか?

次に仏教では、心を調べます。これは欲、これは怒り、これは善心所、これは不善心所などなど・・・。では、この心を観察しているのは誰でしょうか?

私は台湾にいた時に、ある尼僧さんからこう言われました「あなたが箪笥を見ているとして、あなたは決して箪笥ではありえない」と。そうですね、見ている対象(客体)と、見ている本人(主体)は二つに分かれていて、箪笥は自分ではありえない。

それならば、禅定に入って、32の部分に分けた身体の内部を観ているのは誰か?

心の縁起を観ているのは誰か?

観られている身体、観られている心以外に、観る者、即ち<認識主体>がいないと、話のつじつまが合わない、という事になります。

「心と身体は<自分>のものではない」この時の<自分>とは、われわれの、エゴにまみれた普通の状態の時の意識の事ではなくて、<真の自己=永遠に見つける事の出来ない認識主体>という事になります(観えたら他者なのですから、<自己>は永遠に観えないのです)

これって、コロンブスの卵じゃないですか?

仏陀の教えは、人の盲点をついたコロンブスの卵、私はつくづくと、そう思います。

追補:自己啓発本でよく「自分探し」を勧めていますが、これ無駄ですよ。探している「当の本人」そのものは、探し当てる事ができないからです。仏教では「これは自分ではない」「これは自分のものではない」と、徹底的に「捨てて」いく、ただただ、捨てるだけ、です。認識主体は認識主体を認識できない。ヤージュニャヴァルキヤ、釈尊より先に生まれた、インドの哲人の、偉大な発見です。