南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

65歳の仏教修行報告書(4)>無念無想

最近、二人の方から「無念無想」について聞かれました。

偶然でしょうか?お二人ともこう言います「座禅・瞑想って無念無想になりなさいっていうけど、私にはできないわ」

私はこう答えました「人間、生きている限り、無念無想にはなれません。無念無想になるには、脳の動きが止まらなければならないからです(脳死になる必要があります)」。

日本の禅宗が「無念無想を会得せよ」と言い出したのは、日本の禅宗が武士の為にあった事が大きいと思います。

武士は、決戦なり決闘なりで相手と対峙している時に「明日の晩御飯どうしょうかなぁ」とか「あいつに貸した千円返してもらわんとなぁ」なんて考えていたら、あっという間に、敵に斬り殺されてしまいます。

故に、相手を斬る時は、自分の、刀を掴んだ手と足の動きに集中し、かつ相手の動きを隙なく見張るには、雑念が少なければ少ない方がいいのです。それを「無念無想になれ」と言ったのですね。

私も座禅して、ある種の変性意識の状態に入る事はありますが、無念無想ではなくて、脳がゆったりと休んでいて、雑念が極度に少ない、という状態になります(但し一度、一瞬だけ、無念無想になったことはあります。狙ってなるものではありません。長時間だと、脳死してしまいますから、気を付けて~笑)。

座禅・瞑想は、自分の息を観察するのを基本とします。そして、心を息に貼り付けておいて、自分の想念の上がってくるのを観察し、かつ放下(こだわらない事)します。恨み事などを放下するのはなかなか難しいですが、長く座禅・瞑想をやっていると、実は雑念に振り回される方が余ほど疲れる、という事に気が付いて、自分から放下したくなるのです(普段の我々の脳は、思考過多で疲れていて、本当は、ゆったりリラックスしたがっているのです)。

これが、仏教でいう、座禅・瞑想を通して心を静めるの理、すなわち「調心」ですが、仏教の真髄である<無常・苦・無我>の三相を観るためには、この静まった心を基礎に、心と身体と外界の物質の性質の実相を諦らめる(明らかにする)、もう一つ別の瞑想をする必要があります。これが「観(vippasana)」です。

座って息を観るのが基本ですが、行住座臥といって、歩く時、立っている時、座る時、横になる時にも(すなわち一日中)、自分の息か自分の動作を明確に分かっている状態を保つ事ができれば、なおいいです。

私は、座禅・瞑想を始めて30年経ちますが、一介の主婦であって指導者ではありません。上記の意見は、禅を極めたプロの僧侶とは異なるかもしれません。

主婦のレベルではありますが、何かのご参考にと書いてみました。

追補:仏教の話をする時は仏教用語を使いますが、実は、その指し示す意味内容について、個人がばらばらに使っている事が多いです。禅宗で「無念無想」という時、「雑念が全くない状態」ではなく、「雑念が、ほぼない意識状態」という意味ではないかと思います。仏教の話は、話す前に定義を確認しておく事が大事です。