南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー76

故に、ここで言う所の名色は、法の言語であることが分かる。

日常用語における名色、すなわち、我々が有しているこの身心

(の組み合わせ)は、生まれて以後ずっと存在してるものだ、

と言える。

煩雑なアビダルマでは、我々の名色は、一刹那毎に数えきれない

ほどの生がある、という。

しかし、仏陀の(言う所の)言葉の意味において、真の正しい法

の説明では、毎回の生は、無明が六根を主宰(=主導)して、

外界に接触せしめることにより(生が生じ)、かつ(生が)止息

するまで、生は生じ続けるのだ、と言っている。

もし、日常用語で縁起を説明するならば、縁起の一回の運行で、

二回の生があることになるが、これは理解しがたい状況である。

そして、仕方なく、縁起を、三生三世に解釈するほかなくなり、

この解釈によって、常見がもたらされることになった。

これが、日常用語と法の言葉で縁起を説明した時の、

相違点である。

「日常用語と法の言語の中の『求生(生を求める)』」

ここで私は一つ、とてもよい例を挙げたいと思うーー

「求生」(sambhavesi)でもって、法の言語と、

日常用語の区別を述べたい。

我々が廻向の儀式で水を撒く時、以下の廻向文を称える。

「唯願所有衆生、已生或求生的衆生、皆在快楽中(ただ願う、

すべての衆生、已に生じたもの、または生を求めるもの、

皆が安楽の中にあるように)」

上記の言説の意味は、二種類の衆生がいる、という事である。

一つは已に生まれた衆生で、これを「已生」(bhūta)といい、

ふたつめは、生まれる場所を探している衆生で、これを「求生」

という。

タイまたはその他の国で、皆、このように言いなしている。

所謂「已生」とはすでに生まれ出ていて、ずっと生きている

もので、ちょうどここに座っている私やあなた、である。

「求生」については、神識のみあって、身体の殻がなく、

空中のいたる所で漂っていて、生まれ出るところを探している

もので、それを「求生」と言った。(つづく)

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)

訳者コメント:私はアビダルマ好きです。

仏陀は「無常を見ないで100年生きるより、一日無常を見て

死ぬのが良い」と言いましたが、この時の<無常>って何を

意味するのか、一日見るだけで、死んでもいいと思える無常

って一体何なのか?子供の時からずっと謎で、アビダルマで

「名色の一刹那の生と死」を知った時は嬉しかったです

(故に、現代素粒子物理学も好き~笑)。

ミャンマーのパオは、アビダルマを重視しますが、タイ

仏教は重視しないようです。

さて、あなたはどっち?