南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ「生活の中の縁起」(翻訳文)-77

上記(No.76 )は、完全に日常用語での解説であって、

かつ、外道であり、仏教の言い方ではない。

というのも、仏教は、主体をなす識がいたる所に漂って

いて、生まれ出る場所を探しているとは、言わないから

である。このような言い方は、ただ常見の観念を持つ人

の中にあり、仏教の中にはないものである。

所謂<識>とは、必ず縁生の法でなければならず、今・ここ

の因と縁によって生・滅するもので、いたる所に漂っている

神識というものは、ないのである。

故に、日常用語で言う「求生」は、仏教でいう「求生」とは

異なるのである。

以下は、私個人の考えであるが、仏教の中の「求生」は、

法の言語であり、決して日常用語における「求生」ではなく、

仏教の法の言語の中で言われる「求生」(未だ生まれざるもの)

は、一般の凡夫で、いまだ煩悩心が生じていない状態ーー

愛(渇愛)、取、或いは自我への執着がない状態の事を

言うのだと、思っている。

次に説明する事は、しっかりと聞かなければ、理解することが

できないので、注意して聞く事!

我々は、日常生活の中で、偶々、愛、取があり、かつ

「我(私)」「我所有(私のもの)」に執着するが、これは

相当に、当然の事である。

しかし、我々は、ほとんどの時間の中では、(心は)静寂の

中にある。例えば、今、ここに座っているあなた方には、

「我(私)」というのは、ない。というのも、現時点では、

貪愛もなく、執着するものもないからである。

この時、あなたには「我(私)」という錯覚はなく、

あなたはただ自然に座っていて、法話を聞いているだけである。

この時、心は平常で、空の状態にある。

しかし、時には強烈な愛(渇愛)、取が生じ、焦燥感によって

苦痛を感じる時がある。という事は、普通一般の人々には、

二種類の状態がある、と言える:愛、取が生起する時、

すなわち、憂慮心に燃える自我が生起する時、これを

「已生」というーーこの時、<出生>があるが、しかし、

平常は「求生」ーー生まれ出ようとして準備して待っている

状態ーーなのである。

この二種類の衆生が、まさに、法水を撒いて廻向する時の

対象なのであるーー已でに生まれたもの(已生)は非常に

愚かであり、未だ生まれぬもの(求生)は、何も知らない

無知(の状態)なのである。(つづく)

訳者コメント:「私(我ありという自我感)」とは

錯覚である。夢からさめよう!な訳ですね。仏教は、

何かを信じるとか、信仰とかではなくて、

<六根を通して心が見る夢>から覚める事!

(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語

原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)