3、ここに、もう一つ別の、中道的な解釈方式がある。それは、
我々と切実に関係のある、縁起の言葉の意義に従って、解釈
されたものである。
生と死、それは、縁起の言葉の中では、一つの<受>の発生と、
その後に愛(渇愛)、取、有、生が続く、ということを意味して
いる。
この種の生と滅は、計算する事が出来るし、はっきりと観察する
事もできる。我々の心念に、「我(私)」という意識が立ち上がる
時、一つの有と一つの生も立ち上がる。それは計算する事の出来る
もので、もし、熱心な人がいて、そうしたいと思えば、ある日、
己における「我」の発生を観察し、記録する事ができるし、また、
翌日も、次の日も、観察し、記録する事ができる。
この種の生と滅の解釈は、計算できないほど迅速、という事もなく、
また、ただ母親の子宮から生まれ、最後にお棺に入って死ぬという、
そのような計算の仕方でも、ない。
これは、「私、私のもの」に基づいて、名色または「人」を理解
しようとしたもので、「私、私のもの」という感覚が生起する
その度に、無明がかかわっている、ということを意味している。
名色は、無明を原因として造作される。無明が、「私、私のもの」
という感覚への執着を薀し、増長し、最後に苦の生起にまで導く。
これが一つの生と、一つの死であり、この種の名色の生と滅は、
先ほど述べたように、生活の環境の中で、人々が普通に出会う
事柄である。
このような解釈に基づけば、一日の内に、非常に多くの生と死が
ある。故に、どうか、縁起の言語における生と死の意味をよく理解
して頂きたいーーそれには特別な意味があることーーすなわち、
「我」(という感覚)の生と死である事を。
上記の解釈を、アビダルマ言語の煩雑な解釈や、母親の子宮から
生まれ出る「生」、お棺に入っての「死」という、日常用語と混同
してはならない。もし、この三種類の言語について混同し、
理解することができないならば、縁起の本当の意味を理解すること
はできない。
縁起は、中道的な方式で解釈されなければならず、それは計算
できないほど速いものではないし、一生の間に、一度の生と一度の
死しかない、というような計算の仕方で計算するものでも、ない。
縁起とは、「我」の生と滅に執着する度に、それを一度と計算する
もので、また、それは我々に、この種の生と滅は、縁生の法であり、
相互に依存し合って生起する自然現象であり、「此生故彼生、
此滅故彼滅」である事を、理解するよう、促すものである。
いわゆる「人」とは、全員、ある一定の時間内に、ある種の状況の
下における、縁生の法であり、それを自我だとか、主体だとか、
梵我、またはそれに似た何か、にしてはならない。
それは、ただ、捻転し、相互に依存する自然現象であり、発生し、
その後に消滅するものである。
もし、あなたがそれを「人」と呼びたければそう呼んでもよいが、
名色と呼ぼうが、心身と呼ぼうが、それらは皆一緒に生起する
もので、ただの縁生の法であり、無明、愛、取によって、
「我」という意識が立ち上がり、そのことによって「人」が造
り出されるのである。
我々は、この種の「人」を殺さなければならない。この種の
「人」を殲滅するならば、結果として、苦は終結する。
というのも、この種の「人」こそが、苦の根源であり、仏陀が
我々に縁起を教えたのは、我々にこの種の「人」の生起を防護
する事、防護できれば、苦はない、と言う事を知らしめたかった
からである。
これが縁起の言語における<生>と<死>である。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)