ブッダダーサ著「生活の中の縁起」(翻訳文)ー82
この点に関して、仏陀は、《相応部》因縁篇因縁相応第六樹品
の中で、以下のように言っている:
「比丘たちよ!段食を受用している時、貪、喜、愛が生じる
ならば、これに特化した所の識が生じ、かつ、発展して増長する。
識の安住と増長のある所、必ずや、名色の投入(身心における
状態の変化?)がある」と。
上記の意味を、正確に理解することができますか?
それは、奥深すぎて、人びとに理解される事は非常に困難だ。
故に、私はもう一度強調したい!
「比丘たちよ!段食を受用している時、貪、喜、愛が生じるならば、
これに特化した所の識が生じ、かつ、発展して増長する。
識の安住と増長のある所、必ずや、名色の投入がある」。
我々が口の中に食物を入れて咀嚼する時、もし、貪、喜があり、
美味しいと思うならば、識が形成されて、かつ増長する。
この事は、非常に微細な出来事であって、すなわち、噛み砕く事と、
飲み込む事の動作の間の、非常に多くの過程の中で識が生起して
おり、かつ、色々な種類の識が、生起しているのである:
「ああ、これは美味しい。もう少し食べてみよう。
ん・・・ん・・美味しいぞ!」
毎回、美味しさを感じる度に新しい識は生起しており、
その時には、毎回、新しい名色も生起する。
感覚というものは、ああだ、こうだと、不断に心の中に
生起しているが、それは、識のエネルギーが原動力になっている
のである。名色は、それ(識)が原因で変化しており、かつ、
ある種の作用を引き起こす。
それ以前には、名色には作用はなかったのだが、識に従って
作用を引き起こすのである。数多くの回数の識が生起すると、
数多くの回数の、名色の生・滅も、引き起こされるのである。
そして、それは、一口のご馳走を食べている時間の内に、
発生するのである。
故に、仏陀は、識がそこで生起したならば、名色もまた
そこで投入される、と言ったのである。
上記の例では、一口分の食物を咀嚼する時間を問題にしているが、
その短時間の間に、特化した識は、形成され、かつ増長する。
まさに「一口分の食物を咀嚼している間に!」
食物を咀嚼している時、無明、行、識の造作によって、各種の
名色が生じる。というのも、一回毎の咀嚼は同じではありえない為、
それに対する感受もまた、変化するからである。
こうして、また次の食べ物を口に放り込む前、各種の名色が
生じ続けるのである。(つづく)
(台湾香光尼僧集団翻訳グループ~タイ語→中国語
原題「生活中的縁起」中国語→日本語 Pañña-adhika sayalay)