南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー61

仏陀は続けて言う:

吉達!

「自我(ママ、以下同様)」の形式もまた、同じである。

どのような時刻においても、粗い肉体におけ

る「自我」を得たとき、心霊の元素によって

造られた「自我」と、意識によって造られた

「自我」は、得ることができない;

心霊の元素によって造られた「自我」を

得るとき、粗い肉体の「自我」と、意識に

よって造られた「自我」は、

得ることができない;

意識によって造られた「自我」を得るとき、

粗い肉体の「自我」と、心霊の元素によって

造られた「自我」は、得ることができない。

吉達!

これはまさに、新鮮な牛乳が牝牛から来る

ように、凝乳は新鮮な牛乳から来るように、

バターは凝乳から来るように、凍乳は乳酥

から来るようなものである。

それが新鮮な牛乳であったとき、それを凝乳、

バター、乳酥と呼ぶ人はいない;

そして、それが凝乳になった時、それを牛乳、

バター、または別の名称で呼ぶ人はいない。

執着された「自我」もこの通りであって、

一人の人間が、肉体の「自我」に執着する時、

心霊の元素によって造られた、または意識

によって造られた「自我」を「自我」とは

認めない;

一人の人間が、心霊の元素によって造られた

「自我」に執着する時、粗い肉体によって

造られた「自我」と、意識によって造られた

「自我」を「自我」とは認めない;

一人の人間が、意識によって造られた「自我」

に執着する時、粗い肉体によって造られた

「自我」と、心霊の元素によって造られた

「自我」を「自我」とは、認めない。

吉達!

これら「自我」に関する名詞は、世俗の言語

と世俗の定義によっており、世俗的な言語の

中の、世俗的な名詞として取り扱われている。

如来もまた、俗にしたがってそれらを

使用するが、如来は決して、それらに執着

したことはない。

最後に、布咤婆楼と吉達は、今回の説法は、

人をして非常に喜ばせたと讃嘆し、それは

まるで、転覆した船を元に戻すかの如くであり;覆い隠された物を明るみに出すようであり;

絶望して道に迷っている人に道を指し示すよう

であり;

暗闇に灯を点して、視力が正常な人にはっきり

とものが見える様にするかのようである(+と言った。)

布咤婆楼は流浪する遊行者から、仏陀の在家

信者になり、吉達は出家を願い出て、

落飾して僧となる許可を得、程なくして

阿羅漢果を証悟した。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>