仏陀は続けて言う:
吉達!
「自我(ママ、以下同様)」の形式もまた、同じである。
どのような時刻においても、粗い肉体におけ
る「自我」を得たとき、心霊の元素によって
造られた「自我」と、意識によって造られた
「自我」は、得ることができない;
心霊の元素によって造られた「自我」を
得るとき、粗い肉体の「自我」と、意識に
よって造られた「自我」は、
得ることができない;
意識によって造られた「自我」を得るとき、
粗い肉体の「自我」と、心霊の元素によって
造られた「自我」は、得ることができない。
吉達!
これはまさに、新鮮な牛乳が牝牛から来る
ように、凝乳は新鮮な牛乳から来るように、
バターは凝乳から来るように、凍乳は乳酥
から来るようなものである。
それが新鮮な牛乳であったとき、それを凝乳、
バター、乳酥と呼ぶ人はいない;
そして、それが凝乳になった時、それを牛乳、
バター、または別の名称で呼ぶ人はいない。
執着された「自我」もこの通りであって、
一人の人間が、肉体の「自我」に執着する時、
心霊の元素によって造られた、または意識
によって造られた「自我」を「自我」とは
認めない;
一人の人間が、心霊の元素によって造られた
「自我」に執着する時、粗い肉体によって
造られた「自我」と、意識によって造られた
「自我」を「自我」とは認めない;
一人の人間が、意識によって造られた「自我」
に執着する時、粗い肉体によって造られた
「自我」と、心霊の元素によって造られた
「自我」を「自我」とは、認めない。
吉達!
これら「自我」に関する名詞は、世俗の言語
と世俗の定義によっており、世俗的な言語の
中の、世俗的な名詞として取り扱われている。
如来もまた、俗にしたがってそれらを
使用するが、如来は決して、それらに執着
したことはない。
最後に、布咤婆楼と吉達は、今回の説法は、
人をして非常に喜ばせたと讃嘆し、それは
まるで、転覆した船を元に戻すかの如くであり;覆い隠された物を明るみに出すようであり;
絶望して道に迷っている人に道を指し示すよう
であり;
暗闇に灯を点して、視力が正常な人にはっきり
とものが見える様にするかのようである(+と言った。)
布咤婆楼は流浪する遊行者から、仏陀の在家
信者になり、吉達は出家を願い出て、
落飾して僧となる許可を得、程なくして
阿羅漢果を証悟した。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>