☆「掌中の葉」(翻訳文)4-9
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(三)尋と痴
いまだ生起しない善法を生起させるために、痴行者は、精進の方法を種々、画策する。
しかし、これらの方法は、彼の成功を助けないだけでなく、却って、彼の成功の障礙になる。
言い換えれば、痴行者の愚痴(=愚かで無知な様)は、彼が善念でもって、己を変容させようと思っていても、最後には、反作用しか受け取ることができないのである。
尋行者も同じであって、彼は一切の事物に対して、理解と思惟を試みるが、しかし、ある種の事柄は、理解されることがない。
彼は色々と思惟して、普通では考えられない種々の事柄を理解しようとするが、その解を得ることができず、却って困惑するのである。
邪見を擁する人も、痴行者の仲間に分類する。
尋行者と痴行者の区別:
尋行者
1、各種の、混乱した思惟を持つ。
たとえば、何かの事柄に遭遇した後、彼は脳内において、この事柄に関して、反復して思惟するが、それが過剰な事によって、頭が混乱する。
2、色々な、混乱した思惟を擁するため、確定・決定ができない。
痴行者
1、掉挙である。たとえば、過去において、なすべきであったが、なさなかった事柄、なしてはいけないのに、なした事柄を、常に思い出す。
2、洞察できないので、動揺する。
◆結論:
(一)信行者は貪行者と同分であり、覚行者と瞋行者は同分であり、尋行者と痴行者は同分である。
(二)修行者は、性行の同分、または区分に関しての課題について、重視しなければならない。というのも、これは、修行者にとって、己自身で、己の修行を点検する、良い基準・根拠となるからである。
(4-10につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>