『阿羅漢向・阿羅漢果』1-33
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<この説明を導きとして>
私のこれらの説明は、前方にある道筋を指し示しているのであって、一言一句聞き漏らさずに暗記する為の、授業をしている訳ではない。
私はこれまで、私の体験を具体的に説明するのを好まなかった。
というのも、私の弟子が、私の文章から勝手に定義を定めて、彼らの、真理の本質を追究する所の(+修行に)憶測を付け加えるのを、恐れるからである。
私の開示は、一種の文字にしかすぎず、それ自体が、人を目覚めさせるわけではない。唯一、念住の覚知、安定して<今・ここ>に安住する事だけが、あなたをば、直接、真理の前に連れて行ってくれる。
永遠に、真理に対して先入主を持つことなく、禅の修行に対して、憶測や推測を持つことなく、また、この解説を読むことによって得た知識に対して、このようにすれば、あなたの身・心の真正なる本質を理解できるなどという、誤解を招かないようにして頂きたい。
念住を導きとして、しっかりと直接的に内観する事、また、智慧で以て観察し、修行に精進する事。こうして初めて真相に浸透することができる。
この段階の修行においては、身体はすでに完全に内在化されており、淫欲の力もまた、切断されている。
更に一歩、前へ進むために、あなたはあなたをこの段階まで連れてきた禅の修行の技巧を利用して、鍛錬の手段としなければならない。
この時の目的は、念住と智慧を訓練するためであり、それは、非常に把握しがたい、微細な心理現象に対応する時、それを更に加速し、精鋭化し、確実にするためである。
身体の不浄のイメージを、平常の如くにあなたの面前に置いて、それを心内に撤収する時、それを観察する。その後に、再び、イメージをあなたの面前に戻して、改めて修習を開始する。
イメージがどのようにして、心に溶け入るのかを気を付けて観察し、不断にこのように観察することによって、心がこのことに非常に熟練するまで続ける事。
ひとたび熟練したならば、心は、イメージに専注するやいなや、後ずさりして戻り、内側にある能知と融合する。
淫欲の根本的道理が、明白に明晰に理解することができたならば、次には、この純粋な心の鍛錬でもって、心を訓練する。
淫欲はもはや問題にならないーーそれは永遠に切断されて、二度と以前のように重要視されることはない。
しかし、それはすでに大部分において消滅させられているものの、しかし、いまだ不徹底であるが故に、少々の部分は残されているが、それはちょうど残された残渣とか、または錆が心内に残っているようなものである。
(1-34につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>