昨日は<「正念」の定義が誤解されて伝わっている現状>をブログにあげました。
そこでは、正念は本来「業処を忘れない」という意味だ、と書きました。
Nimitta を得て禅定に入る為の、<正念の修行>に打ち込むと、己自身の感受・感情(苦・楽・不苦不楽)を顧みることがなくなります。
これはしかし、諸刃の剣のようで、人間、時々は、自分の感情に向き合った方がよい時もあります。
己の喜怒哀楽、自分はなぜこのようなシュチエーションで怒ってしまうのか?なぜこの事ばかりに執着するのか?
これらの事柄について、やはり、思考し、思惟し、分析する必要があります。
禅定& vipassanā を目指す為の「業処を忘れない」修行と、自分の中において縛られている所の、負の感情を解き放つ為の努力、その両方が必要だと思います。
それを天秤のようにバランスよく修習する事・・・修行者にはそのような<智慧>が必要です。
ゴータマ仏陀の教えは、対機説法であったと言われています。
一人一人、修行の処方箋は、みな異なります。
Aさんにとっての良薬は、Bさんには劇薬になるかもしれません。
指導者の言葉を鵜呑みにせず、己自身の心情や状況とバランスを取りながら、修行を進めて下さい。
仏法の実践に、早飲み込み、人まねは禁物です。
修行とは、一切を己自身が引き受けて、自己責任(誰を指導者に仰ぎ、何を学ぶのかという判断も含む)で実践するものだと思いますが、<智慧>と<精進>のバランスを、お忘れにならないようにお願いします。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>