私は九州の田舎、Y盆地に庵を結んで、一人で住んでいます。
ご多分にもれず、ここY盆地でも、老人人口は多く、私の知人、友人も、老人ばかりです。
で、私を含め、老人の心配事と言えば、《認知症》一択
(ほかに悩みはあっても、日本の老人は慎ましやかで、自分の家の憂鬱を他人に言わないので、私も聞きません)。
最近、ある名士の家の大奥様が、認知症を発症して、家族ではお世話しきれず、介護施設に入所した、と聞きました。
認知症・・・目下の所、治療法がなく、誰がなってもおかしくないのですが・・・それなのに
<名士の家の大奥様がねぇ・・・うん、ざまぁみろだ>
的に言う人が(若干一名)いるので、これには少々閉口します
(この大奥様は、大変に人格者で、終戦の混乱期には、近所の困窮者の面倒をよくみたそうで、基本的に、彼女を褒めこそすれ、悪く言う人は皆無なのですが・・・私も、引っ越してきた当時、新参者として、大変にお世話になったものです。)
老いは、誰にでもやってきますし、老いれば、相当の確率で、認知症にもなります。
この現実を前に、私は、ゴータマ仏陀の偉大さに思いを致し、頭を垂れるのです。
夏の宮殿、冬の宮殿など、父王に三つの宮殿を立てて貰って、何不自由なく暮らしていた青年シッダッタ太子(後のゴータマ仏陀)は、従者と町に出て、初めて老人、病人、死者を見て、衝撃をうけます。
そして、これより先、彼は、人生の悲惨さに鬱々として、そこからの解放を願い、時が来ると、妻子を捨てて、宮殿を出奔し、求道の道に入り、ガヤー(現在のブッダガヤ)の地において、仏陀として覚醒し、当時のバラモン教(現在のヒンズー教)を批判して、【無常・苦・無我・涅槃】の基本理念や、修道の道標である所の《八正道》、身・心・外部世界に関する[存在の真理]に肉薄する為の修行である所の、《止・観瞑想》(サマタ・vipassanā) を確立していったのでした。
若くして、人生の悲惨に気が付く事ができ、かつ、己自身の人生を、宗教的に昇華できたゴータマ仏陀は、やはり、非常に、非常に、稀有な人であったろうと思います。
私などは、70代になってはじめて、認知症の恐ろしさに気が付いて、立ちつくしているのですから・・・
願わくば、長年続けてきた安般念(アーナーパーナサティ)、気づきの瞑想が、認知症予防に効果があります様にと、せめてもの希望をつないでいる毎日です。