Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(103-8/9/10)(私家版)

呼吸の冷たさと熱さに注意を払ってはならない。冷熱は、火界に属するが、もし長時間呼吸の冷たさ熱さに注意を払うならば、四大分別観の修行になってしまう。これは間違いである。初め、呼吸の入ると出るだけに注意を払う。次の段階において、呼吸の長短に注意を払う。次は、呼吸の全体に注意を払う。もし、呼吸の入り、出るのみに注意を払い続けるならば、深く入定出来ない。故に、呼吸の始まり、中間、終わりに注意を払う。しかし、余りに造作してはならない。一切は自然でありたい。もし、心が、密接に、呼吸の開始、中間、終わりに注意を払うならば、妄念は出にくい。呼吸の開始、中間、終わりは皆、鼻の同じ場所にあるべきで、呼吸に従って上下してはならない。この様な心は静まり易い為、我々の定も又比較的深くなる。この3つのステップは、安般念を修行する時には、覚えておくべきものである。。。      もし、妄念が多く出て来るならば、息を数える。息を数えるのは、妄念を克服する良い方法である。入る、出るで、一。入る、出るで、ニ。入る、出るで、三……もし面倒だと感じるならば、未だ禅修行の楽しさを知らないのである。実際、もし、呼吸の長短に注意を払う事ができるならば、即ち、この息は短い、この息は長いと知るならば、呼吸の全体(始まり、中間、終わり)も知っているのである。もし、呼吸の始まり、中間、終わりを知らないとしても、余り気にし過ぎる必要はない。呼吸は時には長くなり、とき短くなる事を知っていれば良い。定力の良い時、光は非常に速くに出て来る。光が出て来た時、ある種の修行者は、驚いてしまい、そのために、光は消えてしまう。故に、光が初めて出現した時、あっと言う間もなく、消えてしまう。光が出現すると、通常は、皆非常に興奮し、期待感も高まる。これも又心の慣性である。心が激動し始める時、7覚支の中の軽安、捨、定を用いて退治する。。。光もまた因縁の法であり、我々が望めば出て来るものではない。例えば、果物を植えるにしても季節があり、まだ結実のじきが来ていないのであれば、いくら懸命に水を上げても、果物は成らない。故に、光に対する期待を放棄しなければならない。以下の様に己に告げる事:「光は出てくる時には出てくる。出て来ない時には、どう頑張っても出て来ない。」この様に(光へのら期待を)放棄する。この事も非常に重要である。あのアメリカの禅修行者の様に、7日目の光は非常に強くて、心全体が吸い込まれるかの様であった。彼は一面ではとても興奮し、一面では非常に恐れた。そのため、次の日に、再度光が出る様に努力して待ったが、光は二度と出て来なかったのである。彼は心の中で思った:「ニ、三日努力したものの光は出て来ない。放棄しよう!」放棄すると、光は再度出て来たのである。修行はこの様にあるの、が望ましい。一切は自然に任せる事。あなたの心が激動し、期待するのは、心の不純、不浄を表す。煩悩があれば、当然、光は出て来ないのである!