南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(104-1/2/3/4)(私家版)

■四無量                 四無量心とは、慈、悲、喜、捨である。四無量が「無量」と呼ばれるのは、禅の修行の時、必ず心を十方の一切の無量の衆生にむけ、遍満しなければならないからである。それらは又「梵住」(brahmavihāra)とも呼ばれる。というのも、梵天界の諸々の梵天の心は、常にこの境に安住しているが故に。              1.慈…………                                 一切の衆生の幸福と安楽を願う。慈は瞋根を取り去る一助になる。慈、悲、喜と捨の所縁は衆生である。慈心禅は安楽なる衆生を所縁に取り、安楽なる衆生に慈心を送る。彼に精神的な苦痛のない様に、身体的な苦痛がない様に、瞋根のない様に、平安に日を送れる様にと願う。。      合計四句あり、どの句をもってしても、三禅に到達点する事ができる。          最初、我々は先に己自身に慈愛を送る。。   5分か10分の後に、二番目の対象を選ぶ。あなたが尊敬する人(執着ではない)を選ぶ。父母を選ぶのは賛成しない。又己と同一の性の人を選ぶ事。異性を選ぶと愛欲が生まれ易い。というのも慈愛は愛欲と非常に近いが故に。。。。          《清浄道論》にこの様な話がある。。。  ある居士が比丘について、慈心禅を修行した。比丘は彼に異性に慈愛を送ってはならない事を、教えるのを忘れたので、彼は己の妻を対象にして慈愛禅を実践した。その結果、欲愛が生じて、彼は妻の寝床を常に恋しがる様になってしまったのである。。  慈愛は、すでに往生した衆生(死者)を所縁に取ってはならない。というのも、彼はあなたの慈愛を受け取る方法が出来ないが故に。。。               慈愛の力は非常に大きい。私はある時、マレーシアにいて、一人の出家者と一人の女性居士と共にいた。居士は、我々二人の出家者に対して非常に非礼であった。話し方は粗野で無礼で、このまま一緒にいると、彼女が多くの不善業を重ねるだけでなく、我々も不快である。その為、私は瞑想の時、彼女の相を取って彼女に慈愛を送った。その時私は、己自身の不快を取り除こうとしただけで、彼女を変えようなどとは考えていなかった。。。。          20分か30分が過ぎて、私は下座して部屋に戻ろうとした所、この居士は二人分の品物を用意して供養してくれたばかりでなく、跪いて我々に布施を捧げたのである。誠に不思議でありました!          これ以降、彼女の態度はまるで別人の様であった。この体験から私は、慈愛禅への信頼が揺るぎのないものになったのである。   我々の尊敬する人を対象に取る時、非常に速く慈愛心が生じる。成功したならば、次は、比較的中立的な対象(特別な感情を持たない人、偶に見かける人)を取る。成功の後、我々は怨敵を対象に取る。もし、慈愛心を怨敵に送って第三禅に到達する事ができるならば、世界には我々を傷つける人は存在しなくなる。。。         この後、我々は、我、尊敬する人、中立的な人、怨敵というこの四種の衆生への限界を取り除かなければならない。この四種の衆生に対して、差別のない平等の慈愛を送る。彼は敬愛される人物故に慈愛を多めに送。怨敵には少な目に送るなどはしない。もし、この様に実践できるならば、限界を取り除いた、という。安般念を修行する時、先に5分から10分程の慈心禅を修するのを提案する。この様にすれば、心は比較的柔軟になり、その後に安般念に転じれば、心はリラックスできる。