Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳(中→日)<実用アビダンマ>(103-5/6/7)(私家版)

安般念の所縁は呼吸である。注意力は、鼻孔の中に置いてはならず、人中に置く。余りに接触点を気にしすぎてもいけない。その様にすると、心は非常に緊張するが故に。ただ、注意力を鼻孔の下のある一定程度の範囲に置いておくのが良い。もし、接触点を感じられなくても問題はない。なぜ、接触点等と言うのか?それは、注意力が呼吸と共に頭に行ったり、腹部に行ったりするのを防止する為である。故に、接触点を言うのである。もし、心が、呼吸と共に、上に行ったり下に行ったしないのであれば、接触点を気にする必要はない。ただ、呼吸が鼻孔の前面において、入ったり、出たりするのが分かっていればそれで良い。。。               次は、呼吸を観ずる時の態度について。我々の受けた教育は、目的を達成するまで、何事も全力で対応せよ、と言うものである。例えば、お金儲けは一番金持ちに、試験は一番に……などなど、全て目標達成方である。この種の真理は、心の緊張を齎すが、しかし、我々は自覚しない。というのも、それは子供の時から累積されたものであるが故に。我々は、何かをする時、本を読むのも、皆この様な傾向がある。故に、あなた方は授業を受ける時は、非常に緊張している。授業がこうであるから、禅の修行も又この様である。これは、真理的に累積された習性である。師は、常に注意喚起して初めて、あなた方はゆっくりと、この習性を手放す事ができる。そうでないならば、この心理は慣性的反応となり、本人は自覚しない。故に、観ずる時の態度は非常に重要である。私がアメリカで禅の修行を指導した時、(私が)一つの(参考)例を紹介した所、あるアメリカ人の学生が応用した為、進歩が非常に速かったのである。その例とは、以下の様なものである:あなたは、岸辺に立って川の流れを見ている。緊張する必要はない。真面目に川の流れを見ているだけで良い。ただ、気軽に自然な態度で、川の水が流れて行くのを見ていれば良い。まさに、この様な態度で、呼吸を観察するのである。座って、先に想像してみる:私は川岸に座って川の流れを見ている。私の呼吸は、この川の流れと同じである。自然な、リラックスした心でもって、川の流れを見る様に、同じ態度で、呼吸を観察する。このアメリカ人は、初めて10日禅に参加したのであるが、6日目には、すでに半時間以上、専注する事ができる様になった。7日目には、彼の禅相が出現しただけでなく、心全体が吸い込まれる様な感覚を得た。これは非常に良い境地である。私は、なぜこの様に進歩が速いのかと、問うてみた。彼が言うには、彼は私の説明をよく覚えていて、活用したのだ、との事であった。この様に、定の修行は、リラックスした態度で実践するのが良いのである。