無明と渇愛は、行為をして業力を備わせしめるに必要な要素である。業力(kammaーsatti)とは即ち、意志を伴う身行、語行、意行であり、それは業果(kammaーvipāka)を生じせしめる事のできる潜在的エネルギーである。この種の潜在的エネルギーは又“異刹那業“(nānākkhanikaーkamma)とも言う。というのも、我々はある一つの心識刹那において業を造(ナ。以下同様)している為、もし、当該の業が熟した時、業力は今生、又は未来生における、別の時間において果報…脚注5。を生じるのである。しかしながら、もし無明と渇愛がないならば、行為に業力が伴う事はない。。。 ………………………………………… ★願以此功徳、早日証得涅槃楽! 緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属Paññādhika Sayalay (般若精舎)