Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-27

8-6-2 諸根のバランス

安般念禅相に専注する時、有分心に落ちるのを避けるためと、また、引き続き定力を向上させる為に、あなたは五根(+の力)に頼らなければならない;

信(saddhā)、精進(vīriya)、念(sati)、定(samādhi)、慧(paññā)によって、心を策励させ、心をして専注させ、(+心をして)似相に固定させる。

五根とは、心をコントロールする五種類の力であり、それらは、心をして、涅槃へ向かう止(samatha)と観(vipassanā)の正道から離れないようにする(+ことができる)。

8-6-2-1 信(saddhā)

五根の内、一番目は、信である。

信の特徴は(信じるべき事柄 saddheyya vatthu)に対して、信心(=確信、納得)がある、という事である。

その作用は清澄で、清水宝石が、混濁した水を清らかにすることができるが如く、である;

または励起で、洪水に向かって行き、洪水を渡るが如くである。

現起(=現象)は、迷妄ではないこと、すなわち、心の不浄を取り除くか、またはそのように決意し、その決意に、迷いがない事。

近因は、信じるべき事柄、たとえば、三宝、業報の法則、縁起、または正法の聴聞、およびソータパナの素質、である。

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。(5-28につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-26

8-6-1 使処清浄

使処清浄とは、内部と外部を清浄に保つ、という意味である。

あなたの頭髪、爪また体毛が長いとき、また体中が汗まみれの時、これを内部不清浄、という。

古くて悪臭を放つ袈裟を着ていたり、住まいが汚い時、これを外部不清浄、という。

この時、心と心所に相応して生起する智もまた不清浄で、それは、まるで、不清浄なランプのホヤ、ランプの芯、油によって生じた灯火のようである。

諸行ーー究極名色法及びそれらの因ーーは、不浄なる智でそれらを観察しようとする人に、明確に顕現することがない。

あなたがあなたの業処において、このように、禅修行に尽力する時、たとえば、安般念など、それは成長しないし、向上もしないし、円満成就することもない。

しかしながら、内部と外部が清浄である時、心と心所に相応して生起する智もまた清浄であり、それは、たとえば、清浄なランプのホヤ、ランプの芯、及び油によって生じた灯火のようである。

諸行ーー究極名色法およびそれらの因ーーは、清浄なる智によってそれらを観察する人に、顕現する。

もし、あなたがあなたの業処において、このように禅修行に尽力する時、たとえば、安般念など、それは成長し、向上し、かつ円満に成就する。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-27につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-25

8-5-7-7 姿勢

歩くのが己には適していると思う人もいるし、立つまたは座る、または横になるのが適している、と思う人もいる。

住む所の問題と同じく、あなたはそれぞれ、三日ほど試してみて、定のない心をして定を得させ、またはすでに定のある心に、更に定を深めることのできる姿勢(+を見つけるの)がよい。

その他の姿勢は不適切である。

あなたは、七種類の不適切な状況を避け、七種類の適切な状況を選ばねばならない。

というのも、あなたは、そのように禅相を育成することに精進するれば、あなたは、余り長い時間待たずに、安止を証得して、己の願望を実現することができるが故に。

8-6 10種類の安止の善き方法

しかしながら、上述のように修行しても、安止が得られない時、あなたは、10種類の安止の善き方法を採用しなければならない。

安止の善き方法とは、以下の10の方面から考察するのがよい:

1,使処の清潔。

2,諸根のバランス。

3,善き方法による善相の掌握。

4,心が精進するべき時の、心の精進。

5,心がコントロールを受けるべき時の、心のコントロール

6,心が励起するべき時の、心の励起。

7,心を平捨によって観ずる必要がある時、心を平捨によって観ずる。

8,定の無い人から遠く離れる。

9,定のある人と親しくする。

10,定の育成への決意。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-26につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~少欲知足

 

大昔の中国、尭に「帝位を譲ろう」と言われた許由は

「ああ、いやなことを聞いた」「頴水で耳を洗おう」

と言った、のだそうです。

 

昔、一個の樽を我が家となし、住していたギリシャの哲人は言いました:

「王よ、あなたが私を訪ねてきて、何か一つ望みを言えと言うので、いわせてもらうが、王よ、そこをどいてくだされ。」

「あなたがそこに立っているので、樽に陰ができて、日照が悪い。」

 

2500年前のインドで、シッダッタ太子は「王国なんかもらっても、意味なし」と達観して出家、苦行6年の後、菩提樹の木の下で悟りを得、2500年後の現代において、心の安寧を得たいと願う善男善女たちの内に、その名を轟かす事となりました。

 

人間、立って半畳、寝て一畳。

野に出れば、名もない草花が、人は一人でいても、決して孤独ではないと、そっと語りかけてくれる。

権力から遠く離れ、少欲知足を達観した者の人生は、楽しい。

★「目の中の塵」(翻訳文)2-2

20年か30年の仕事人生の中で、我々はもしかしたら、多くの人物を演じるのかも知れない。

少しばかり思い出して頂きたいのは、この一生の間に、あなたがどれくらいの人物を演じたことか・・・女の子、姉妹、学生、友人、恋人、母親・・・これはまだ少ない方で、まだあげれば、秘書、キャッシャー、庭師、コック、洗濯屋、乳母など、無数の人物像がある。一回ごとの人物像が変わるたびに、異なる服装になる訳だがーーあなたは事務所での服装と、家で料理をしている時の服装、庭で庭木の手入れをしている時の服装とは、まったく異なっているのである。

異なる配役には、ことなる服装がある!

しかし、我々が、その人物像こそが己自身だと思う時、問題は発生する。

女優が家に帰っても、なお、マクベスの妻であるとすると、それは問題だ!

このような認識は、世間の一切は、素人演劇であることを認識せず、その演劇・舞台が終われば、自分の役割も終わる、ということを知らないでいる。

我々は、不断に、舞台上で、仮の人物を演じており、我々は、朝から晩までずっと、庭師の演技ばかりしている訳にはいかないのである。

特に、我々が入眠する時、我々は、己が昨日は何の人物であったのかも、覚えていないのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-3につづく)

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<ケーマ尼著「「目の中の塵」中国語→日本語

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

★「目の中の塵」(翻訳文)2-1

第二章 演劇

シェークスピアは言う:

「世間とは、すなわち、一個の舞台であり、男性と女性はみな、俳優である。」

仏陀もまた、シェークスピアのこの言葉に、賛成するに違いない!

我々は、シェークスピアのこの言い方を多少推し進めて、仮に我々が、重要な主役を演じている知名な女優であると、仮定してみよう。

(+この女優は)ある時には「真夏の夜の夢」の王妃を演じ、ある時には「マクベス」の中のマクベスの妻を演じるかもしれず、また、なるべく、それぞれの役を、上手に演じたいものだ、と思うに違いない。

舞台に上がる前、我々は、楽屋で服を着替え、その後に、全力を上げて、己のセリフを朗読する。

成功したならば、我々は耳をつんざく拍手の音を聞くことになり、非常に嬉しく思うことであろう。

しかし、我々は楽屋に戻って、普段の洋服に着替えると、家に帰る。その後では、我々はもう、己自身をマクベスの妻だと思う事もないし、「真夏の夜の夢」の中の王妃だと思う事もない。

そうではないか?

結局、我々は、家に戻り、また己自身に戻るのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-2につづく)

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<ケーマ尼著「「目の中の塵」中国語→日本語

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)~5-24

8-5-7-4 人

人:無益な言論をなさず、戒行・功徳を擁し、定のない心をば、定を得る様にすることができ、または、既に定のある心をして、更に定を深める人は、適切な人である。

己自身の身体に関心を寄せすぎたり、運動や、身体のメンテナンスに忙しく、無益な言論をなし、趣味について語る人もまた、付き合うには不適切である。

というのも、彼らはただ干渉、混乱を齎すだけであって、それはまるで、清らかな水に、泥を混ぜ込むようなものなのである。

8-5-7-5 食べ物

甘い食べ物は、ある種の人々に適しており、酸っぱい食べ物は、また別の、ある種の人々に適する。

8-5-7-6 気候

涼しい気候は、ある種の人々に適し、温暖な気候は、また別の、ある種の人々に適する。ゆえに、あなたは、どのような食べ物を食べて、どのような気候の場所に住めば、自分自身が快適に思うのか、定のない心に定を得させることができるか、またはすでに得た定を更に深めることができるかを見つけ出すべきで、その時、あなたはその食べ物、その気候があなたに適しているのである(+と判断してよい)。その他の食べ物、気候は不適当である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-25につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>