2014-09-28 是誰庵仏教談義>ドーナツを食べながら空を思う 仏教 仏教で言う<空>。これがなかなか分かりにくい。 原語(インドの言葉)ではスンニャータと言い、<0(零)>の事だ、という人もいます。零はインド人が発見したので、この説もありかな、と思いますが、般若心経にも<空>は出てきて、色(身体)は空とか、意識は空とか言われると、<0>と解釈するのも違うような・・・。 で、今朝、朝食にドーナツを食べていて、ハタと膝を打ちました。 <空>とは、ドーナツの芯の所!!! ドーナツの、小麦粉でできた、味のする部分は、あなたの性格、モノの考え方、ありよう。 人はそれぞれ「私はおちゃめで、贅沢好き。ちょっとわがままで、人付き合いきらい」とか「俺はマッチョで、人助け好き。食べ物は好き嫌い多し」など自画像があると思います。自意識ですね。 しかし、これは、縁によって生起し、一時的に存在しているだけで、いつ変化してもおかしくないくらい、グラグラしているものなのですね、というか、いつも変化しているものなのです(瞑想すると分かりますが、自意識のよってきたる根拠、というのは自分が思っているほど、堅固ではありません)。 で、ドーナツの話。ドーナツを端からムシャムシャ食べていくと・・・あら~~不思議、さっきまであった<穴>はなくなりました。 私たちのほんとうの姿、真の価値は、ドーナツの輪(縁によって生起している部分)にあるのではなくて、ドーナツの芯の所、即ち<穴>の所、そう、<空(=空っぽ)>の所にあるのです。 仏陀は「如来は涅槃するとどこへ行くのか?」と問われて、返事をしなかったそうですが、これは、「ドーナツを食べ終わった後の穴はどこへ行くのか?」と聞かれても、誰も返事ができない、というのと同じ事です。 ドーナツの輪の部分に磨きをかけるのも悪くないですが、食べたらなくなる輪に、必要以上に執着しない事、これ、仏陀のダンマです。 追補:禅宗の一休さんなんかが「空じゃ」「空じゃ」と言いながら、破戒の奇想天外な行動をしていたようですが、彼を真似ても悟れません(苦笑)。凡夫は、まず、ドーナツの部分を磨く事です(上記の記述とちょっと矛盾しますが、一枚の紙の両面、という事で)。 そして、いつの日か、磨いても磨いても、積み上げた砂上の楼閣のように、ドーナツは崩れていく運命にあると分かった時、空を<体感>する事ができます。 仏教を学ぶ人で、<偉い人が空だと言ったから>と、真似して「自由に生きよう」なんて言っている人いますが、生兵法は怪我の素、邪道に入るのでお気をつけて(<空>は、頭で考えても分かりません。<空>とは、座禅瞑想した後、即ち、自己とは何か?を見切った後に起こる<体験>なのです)。。 もう一つ追加。ドーナツは大きいの小さいの、美味しいの不味いの、色々ありますが、芯の空洞は、無色透明、な~~んにもありません、<空>(スンニャータ)なんですね。この<空>が仏教でいう、万人の平等と救済を担保する哲学・思想(本来、仏陀のダンマはサーサナ、即ち、教え)てす。