Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~4>「盲人」

 

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社・改訂版)が手に入りました。P 17下段に、こんな事が書いてあります。

 

《身体と心は一瞬も止まらず、生と滅を繰り返している。“行”は、ずっと変遷、変化の状態の中にある。我々がこの事について、如実に徹底(して認知する事が)できないのは、虚妄で不確実な事柄を頑固に信じ込んでいるからなのだ。(それは)まるで盲人のガイドが率いる旅行に参加しているみたいなもので、安全が保障されるわけがない。目の見えない彼に、鬱蒼とした深い森の中に連れて行かれる事はあっても、安全な所へ連れて行ってもらえる事はない。同様の原理で、我々の心は“行”によって目隠しされており、楽しさを求める時には、同時に苦痛を生じさせており、平静を求めている時には、同時に困難を生じさせている。このような心は、各種の苦痛と困難をもたらすだけなのであるが、我々はそれらを作り出しておいて、その後で嘆くだけしかできない。我々が悪をなす原因は、外観の真相と“行”の真相について何らの理解を持たないだけでなく、それらに執着するからである》(「森林里的一棵樹」より)。

 

ブログ主:”行”、パーリ語でサンカーラ、サンスクリット語でサンスカーラ、難しい言葉が出てきました、二行目でノックアウトです(笑)。

瞑想すると、自分の心の動きが、絵を見るように観てとることができる瞬間があります(だいたいは、10日間の沈黙瞑想会、雪隠づめの時ですね。禅定の力が強い人は、普段の生活の中でも観えますが)。

その時に ”行” が ”観” えます(あなたが現実世界で、卵を手に持って見るように、です)。

例えば、カーンという音(波動)が鼓膜を震わせると、それが種となって、脳に伝わります。脳は波動を情報として処理し、その後、(あなたの性質に基づいて)あれは何だ? あっ鐘の音だ、うるさいなぁ、誰が鐘ついてるの? ちょっと注意してやろうかな、と心は動いて行きますが、これが”行”であり、大きく言うと、<縁起>でもあります(これが目、耳、鼻、舌、皮膚の器官それぞれに起こります。これに意門の脳を足すと六処になります)。

「縁起でもない」という言い方は、仏教的には、間違いです。日本は、仏教用語がふざけた形で定着していて(オシャカになる、成仏する、等)、ゴータマ仏陀の教えを分からなくしている面がありますね。

ちょっと、それました(苦笑)。

                       (翻訳文責Pañña-adhika sayalay)

                              (#4-150529)