<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
この時、ヴァッカリは、純粋な信心と、貪念の雑染した信念の違いを、理解した。
彼は、勇敢にも、仏陀への執着を放下し、その為、油然として、堅固で移ろわない、清かな信心が生じた。この偈を聞き終えた後即刻、彼は阿羅漢果を証悟した。
この物語から、我々は、貴重な教訓を得ることができる。
俗にいう:「善と悪は紙一重」「始めは小さな差でも、終わりには大きな差になる」。
善き因縁の導きの下、貪念は、信心に変容する事ができる;悪い因縁の導きの下、信心は、貪念に変容する事がある。
両者は、表面的には、それほど差がないけれども、しかしながら、一人の良き教師は、あなたがどのような時に、信心具足であり、どのような時に、無自覚的に貪念に傾いてしまうかを、非常に明確に、指摘することができる。
故に、修行者は、以下において討論する所の、性行に関する、同分と区分に関する陳述について、重視をしなければならない。
これは、修行者が自ら、己自身を点検する時の、一つの良き基準となるものである。
(一)信と貪
この両者は、同分である。
というのも、それらは情熱的であり、かつ、苛酷な表現を好まないが故に。
信行者と貪行者の差:
信行者
1、高尚な戒徳などを追求する。たとえば:己の浄化のために、持戒し、禅の修行をする。
2、利益につながるものは、あきらめない。たとえば:浄化の過程において、煩悩と対抗するのが非常に苦痛であっても、彼はなお、成功するまで、(+修行を)堅持し続ける。
貪行者
1、世間的な名利を追求する。たとえば:名声を得たいという思いで、禅の修行をする。
2、有害な事柄であっても、放棄しない。たとえば:過度に修行して、心身ともにトラブルが生じているのに、何が何でもやり通そうとする。
成功するまで、あきらめない。(4-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>