「他応当注意与善法相関的其他対象」とは:彼(=修行者)はずっと
そのまま、悪念を引き起こす対象に注意を払い続けてはならず、
当該の対象以外の、善法と関連する対象に注意を向けなければ
ならない、という事である。
ここにおける、「其他対象」というこの言葉についての理解は、以下の
不浄観(asubha-bhāvana)はまさに「其他対象」となる。
心の中に無生物に対する貪念が生起した時、無常を理解するのが
「其他対象」である。
手はなんて美しいのだろう!」「この人の足は本当に美しい!」と
共に生起するならば、修行者は、不浄観の方式によって、以下のよう
に思惟しなければならない:あなたは何に対して貪愛しているのか?
あなたは彼の髪の毛に貪愛する?それとも彼の体毛?それとも爪、
歯、皮膚・・・それとも尿?
我々の身体は、300個の骨によって組み立てられており、それを900本
の神経が取り巻いている。その上に900個の筋肉を張りつけ、湿った
皮膚で完全に包みこみ、表皮の色彩で色付けし、身体上の9個の穴と、
9万9千個の毛穴は、常に汚れた体液を流している。
身体とは、一塊の骨の組み合わせであり、臭くて汚れていて、下賤で、
嫌悪すべきものであり、総じて、32個の部分の組み合わせで出来ている。
身体には実質はなく、殊勝な部分もない。
このように身体の不浄の本質を思惟するなばらば、有情の衆生に対する
貪愛は取り除く事ができる。故に、ここで言う「其他対象」とは、
身体の不浄観をもって、貪愛を引き起こす対象について思惟する事である。
不浄観は、二種類に分ける事ができる:止禅の不浄観と観禅の不浄観である。
止禅の不浄観はまた、生命体の不浄観と無生物の不浄観に分ける事ができる。
生命体の不浄観は、己の身体の32の部分と、(+己の)外部にいる他人の
身体の32の部分を観照し、それらがすべて不浄であり、嫌悪すべきもので
ある事を観察する。こうする事によって、有情の衆生に対する貪愛を
取り除くことができるのである。(= )(+ )訳者。(つづく)
(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)
中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)