Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-52

「他応当注意与善法相関的其他対象」とは:彼(=修行者)はずっと

そのまま、悪念を引き起こす対象に注意を払い続けてはならず、

当該の対象以外の、善法と関連する対象に注意を向けなければ

ならない、という事である。

ここにおける、「其他対象」いうこの言葉についての理解は、以下の

通りである;心の中に有情衆生に対する貪念が生起した時、

不浄観(asubha-bhāvana)はまさに「其他対象」となる。

心の中に無生物に対する貪念が生起した時、無常を理解するのが

「其他対象」である。

もし、有情衆生に対する貪愛が、以下のような想い「この人の

手はなんて美しいのだろう!」「この人の足は本当に美しい!」と

共に生起するならば、修行者は、不浄観の方式によって、以下のよう

に思惟しなければならない:あなたは何に対して貪愛しているのか?

あなたは彼の髪の毛に貪愛する?それとも彼の体毛?それとも爪、

歯、皮膚・・・それとも尿?

我々の身体は、300個の骨によって組み立てられており、それを900本

の神経が取り巻いている。その上に900個の筋肉を張りつけ、湿った

皮膚で完全に包みこみ、表皮の色彩で色付けし、身体上の9個の穴と、

9万9千個の毛穴は、常に汚れた体液を流している。

身体とは、一塊の骨の組み合わせであり、臭くて汚れていて、下賤で、

嫌悪すべきものであり、総じて、32個の部分の組み合わせで出来ている。

身体には実質はなく、殊勝な部分もない。

このように身体の不浄の本質を思惟するなばらば、有情衆生に対する

貪愛は取り除く事ができる。故に、ここで言う「其他対象」とは、

身体の不浄観をもって、貪愛を引き起こす対象について思惟する事である。

不浄観は、二種類に分ける事ができる:止禅の不浄観と観禅の不浄観である。

止禅の不浄観はまた、生命体の不浄観と無生物の不浄観に分ける事ができる。

生命体の不浄観は、己の身体の32の部分と、(+己の)外部にいる他人の

身体の32の部分を観照し、それらがすべて不浄であり、嫌悪すべきもので

ある事を観察する。こうする事によって、有情衆生に対する貪愛を

取り除くことができるのである。(= )(+ )訳者。(つづく)

(<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」>(1999年版)

中国語版→日本語 翻訳文責Pañña-adhika sayalay)