wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)5-17

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

外へ流れ出た意識と、六根の感知が集まって、交錯する時、覚知は、認知の対象と、混ざり合う。

意識は、眼根と交感して、色相と接触し、認識を生じせしめるが、この認識がすなわち、眼識である;

意識は、耳根と交感して、音声に接触し、認識を生じせしめるが、この認識がすなわち、耳識である;

その他もまた同様に、類推できる。

このようであるから、感官の意識が生起する時、心の本性は、覆い隠されて、見ることができない。

これは決して、本性が消失したのではなく、能知の本性が、意識に変化したのである。

通常、一般の人々は、彼らの目や耳に、色(=物質)や声を追いかけさせ、感情的に、認知された対象に介入し、ただ、これらの感官の対象が消失してから後に、静かになる。

彼らは、日常的な意識の中において、不断に出没する鬼神に沈潜し迷い、心の本性を見失ってしまう。

意識の流れを逆転させれば、想いは阻害されて、止まる。

想いが止れば、意識は、内部に集まり、能知の核心と合一することができる。

禅者は、このように持続的に修行するが、この基礎は、どのような状況においても、動揺しない様(=サマ)に変化する。

たとえ深い定から出ても、心は依然として、安定して緊密で、それはまるで、どのようなものをもってしても、決して、心内の専注を干渉させ得ない、というようなものである。

定そのものは、苦を滅する事はできないが、しかし、定は、一つの、理想的な足場・・・プラットフォームを提供する事ができ、それによって、苦に至らしめる煩悩を、全力で攻撃する事ができる。

定が有る時、観察は、あるがままに自由であり、作り物の造作はなく、念は、十分に覚醒している。

この鋭敏さと、直接的な専注は、智慧が調査し、観察する時に、その支えとなり、協力する。

定によって生起した、甚だ深い安らぎ、静けさと専注は、一つの殊勝なる基礎となり、存在の本質を洞察する内観を、育成する。

(5-18につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」 Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>