南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

☆「掌中の葉」(翻訳文)5-7

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

粗くて明確な五蓋以外に、五蓋の性質は、微細で、潜在的である可能性がある。

高度の警戒心と経験に欠けている時、あなたは、あなたの心がすでに、微細な五蓋に汚染されていることに、気が付かない。

たとえば、慈心の遠い敵は、瞋恚であり、これは比較的粗くて明確であるが、近い敵である貪愛は、相対的に微細である;

悲心の遠い敵は、傷害心(=人を害する心)で、これは比較的粗くて明確であるが、近い敵である憂傷(=悲しみ悼む心)は、相対的に微細である。

こうしたことから、慈心禅の修習を始めた時、我々は非常に容易に、遠い敵である瞋恚の生起を察知することができるし、慈愛でもって対応することができる。

そして、ある一定の期間修習を続けると、遠い敵である瞋恚はあまり生起しなくなる。がしかし、我々は、近い敵である貪愛に、容易に陥ることがあり、知らず知らずの内に、慈愛を散布する対象に、微細な貪愛を生起させる。

悲心禅の修習を始めたとき、我々は非常に容易に遠い敵である、人を傷つけたいという、傷害心が生起するのを察知して、憐憫の心でもって、対応することができる。

そして、ある一定の期間修習を続けると、人を傷つけたいと思う傷害心は、あまり生起しなくなるが、しかし、我々は、近い敵である憂傷心(=悲しみ・悼む心)に容易に陥る事があり、知らず知らずの内に、我々は、憐憫を散布する対象に対して、微細な悲しみや、悼む気持ちが、生起する。

我々が、微細な、潜在的な五蓋に征服されていながら、即刻それを察知できないままに、禅の修行を続ける時、我々は常に、半分の心で専注し、残り半分の心は、ある種の境地に引っかかったままであるように感じる。

この種の現象は、我々に「心はやれど力及ばず」の感覚を齎す。

古参の修行者は、相当の修行体験があるため、非常に簡単に、粗くて明確な五蓋の障礙から脱することができる。

しかし、更に(+心の)深層部におけるの禅の修行の教えについて理解しないか、または正念と正知の力が薄弱である時、微細な五蓋に取り巻かれ、それに囚われても、己自身は、それを知らないままでいる、ということが起きる。

これが、彼らの修行の境地が、継続して上に向かって上昇できないことの、重要な一つの要因である。

これ以外に、古参の修行者は、ある種の、複雑な現象にぶつかることがある。

時には、(+修行している最中の)今・ここにおいて、外部における明確な因と縁が、彼らの心に五蓋を生じせしめるが、そのため、彼らは、禅の修行に専注できなくなるか、または、専注はできても、長く(+集中を)持続することができない(+という状況に陥る)。

以下の述べるのは、彼らが専注を持続できない、二つの一般的な要因である:

(5-8につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>