<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
粗くて明確な五蓋以外に、五蓋の性質は、微細で、潜在的である可能性がある。
高度の警戒心と経験に欠けている時、あなたは、あなたの心がすでに、微細な五蓋に汚染されていることに、気が付かない。
たとえば、慈心の遠い敵は、瞋恚であり、これは比較的粗くて明確であるが、近い敵である貪愛は、相対的に微細である;
悲心の遠い敵は、傷害心(=人を害する心)で、これは比較的粗くて明確であるが、近い敵である憂傷(=悲しみ悼む心)は、相対的に微細である。
こうしたことから、慈心禅の修習を始めた時、我々は非常に容易に、遠い敵である瞋恚の生起を察知することができるし、慈愛でもって対応することができる。
そして、ある一定の期間修習を続けると、遠い敵である瞋恚はあまり生起しなくなる。がしかし、我々は、近い敵である貪愛に、容易に陥ることがあり、知らず知らずの内に、慈愛を散布する対象に、微細な貪愛を生起させる。
悲心禅の修習を始めたとき、我々は非常に容易に遠い敵である、人を傷つけたいという、傷害心が生起するのを察知して、憐憫の心でもって、対応することができる。
そして、ある一定の期間修習を続けると、人を傷つけたいと思う傷害心は、あまり生起しなくなるが、しかし、我々は、近い敵である憂傷心(=悲しみ・悼む心)に容易に陥る事があり、知らず知らずの内に、我々は、憐憫を散布する対象に対して、微細な悲しみや、悼む気持ちが、生起する。
我々が、微細な、潜在的な五蓋に征服されていながら、即刻それを察知できないままに、禅の修行を続ける時、我々は常に、半分の心で専注し、残り半分の心は、ある種の境地に引っかかったままであるように感じる。
この種の現象は、我々に「心はやれど力及ばず」の感覚を齎す。
古参の修行者は、相当の修行体験があるため、非常に簡単に、粗くて明確な五蓋の障礙から脱することができる。
しかし、更に(+心の)深層部におけるの禅の修行の教えについて理解しないか、または正念と正知の力が薄弱である時、微細な五蓋に取り巻かれ、それに囚われても、己自身は、それを知らないままでいる、ということが起きる。
これが、彼らの修行の境地が、継続して上に向かって上昇できないことの、重要な一つの要因である。
これ以外に、古参の修行者は、ある種の、複雑な現象にぶつかることがある。
時には、(+修行している最中の)今・ここにおいて、外部における明確な因と縁が、彼らの心に五蓋を生じせしめるが、そのため、彼らは、禅の修行に専注できなくなるか、または、専注はできても、長く(+集中を)持続することができない(+という状況に陥る)。
以下の述べるのは、彼らが専注を持続できない、二つの一般的な要因である:
(5-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は
<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。
<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>