<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
3、人が、神通の修習に、あまりに熱中する時、彼は、禅定の微細な進展を味わったり、注意を払ったりしない。
4、彼は修行の時、つねに神通の事象を追い求め、心の微妙な発展を疎かにする:
すなわち、粗くて明らかな遍作定から、比較的微細な近行定、その後の、最も微細な安止定まで(+を味わう事を疎かにする)。
5、神通の証得は、難しいものである。
唯一、最高の禅定を、全面的に掌握した時、たとえば、8種類の遍禅から非想非非想処無色禅までにおいて、高度で超越的な五自在を成就し、14種類の御心法、たとえば、順禅、飛び禅など等を完成させた後に初めて、神通を成就させることができる。
こうしたことから、少数の、卓越した修行者だけが、これを成就することができるのである。
6、故に、定の修習を始めたばかりで、いきなり高遠な理想の境地を好み、ただひたすら神通の印の顕現をばかりを求めるならば、「神通」は障礙となる。
10種類の障礙の中で、住所(=住む所)、家庭、衆生(=信徒・門弟)、業(=仕事)と親戚に関しては、我々は、修行に入る前に、己自身の任務と責任を果たしておかねばならない。
しかしながら、世間的な勤め・事柄は、人に錯覚を起させる。我々は常に、世間の事柄は、最後には終わらせる事ができると思い込んでいるが、実際は全くそうではない。
我々は、世間的な勤め・事柄に対して、それが一段落する時、決然として、時間を作り、暫定的に、一切の勤め・事柄を放擲して、修行に専念しなければならない。
というのも、世間的な勤め・事柄は、尽きることがないが故に。
もし、良好な条件を具備していて、世間的な勤め・事柄を完全に放擲して、修行に専念することができるならば、それは非常に良いことである。
こうしたことから、あなたが、更に高度のレベルの法を修習したいとか、解脱に到達したいとか言うのであれば、あなたは上記のような正見を持たなければならない。
◆結論:
(一)10種類の障礙とは:住所(=住む所)、家庭、利益、衆生(=信徒・門弟)、業(=仕事)、旅行、親戚、病、読書、神通である。
(二)我々は決意も固く、(暫定的または永続的に)世間的な勤め・事柄を放擲して、修行しなければならない。
というのも、世間的な勤め・事柄には終わりがないが故に。(5-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>